『暁の寺』四十で、本多繁邦とジン・ジャン(月光姫)は麻布の久松慶子の家で会いますが、このときのジン・ジャンはかなり様子が変です。御殿場で志村克己から慶子の別荘に逃げ込んだ事件の後の面会ですから、硬くなりそうなものです。
慶子は本多に「あなたはけろっとしていらっしゃればいいのよ」と耳打ちします。
「本当に気づいていないのか、それとも気づかぬふりをしているのか」
慶子から「本多さんよ」と言われてジン・ジャンは「あら」と本多に顔を向けます。
「完全な微笑があって、すこしの硬ばりも見られなかった」
「ジン・ジャンの目には、しかし何らの表情がなかった」
「柔らかい微笑のうちに、教科書のような返答をした」
ジン・ジャンは指環をはめておらず、本多はこれを「涼しい拒絶」と受け取りますが、涼しすぎる感じです。
慶子はどこまで知っているのか分かりません。
四十二でジン・ジャンを再び別荘に招く夏の朝、本多は富士山を見つめます。濃紺の富士をしばらく凝視してから、突然すぐわきの青空へ目を移すと、白無垢の富士の幻が現れます。本多は「富士は二つあるのだ」と信じるようになっていました。
プールで黒子の無いジン・ジャン、寝室で黒子の有るジン・ジャンを見て本多が眠った後、別荘は火事になって二人の客が亡くなります。逃げた本多は暁の富士を見つめ、すぐかたわらに冬の富士の幻を見ました。
ここで昭和27年(1952年)の部分は終わり、15年後の双生児の姉との出逢いに続きます。おそらく「再会」ではなかったかと思われます。
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『天人五衰』十五は、安永透が本多繁邦の養子になることを承知して、信号所で見る夏も今年が最後だろうと雲を眺める場面で、短い文章です。「積乱雲が神のように佇(たたず)んで」「白く輝やいていた神の顔は、灰色の死相になった」という不吉な言葉があります。これは何を意味するのでしょうか。
透の不吉な未来(自殺未遂と失明)を示すのかと思いましたが、この場面は1970年の8月下旬のことで、失明は4年以上後です。ちょっと遅すぎますし、透は生命は取り止めるので違うように思われます。
本多繁邦も死期が近づくのは5年後の夏ですから、やはり遅いです。それ以上におかしいのは「積乱雲の逞しい筋肉はそこかしこに恥らいの薔薇色を含み」という表現が出てくることです。透も繁邦も虚弱ではありませんが、筋肉隆々という印象はありません。
これは、作者の三島由紀夫ではないでしょうか。小説の登場人物にとって作者は神と言ってもよいわけで、三島が小説の中に神として自分を登場させるのも不自然ではないと思います。
さらに面白いことに、三島は一人で登場しているのではありません。三島は「一番手前の、一番丈高く見える積乱雲で」「一列になって沖のはるかまでつづいている幾多の積雲は」「白い埴輪の兵士の群のように」並んでいます。なんと三島は「楯の会」の会員たちを引き連れているのです。
並んだ雲の中には「竜巻なりに天へつながっているのもある」「薔薇いろの光りに染っているのもある」前者は三カ月後に切腹する三島と森田必勝を指し、後者は決起に加わった小賀、小川、古賀の三名を指すように思われます。
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聖地のなかの聖地であり、ヒンズー教徒たちのエルサレムであるベナレスで、本多繁邦は白い聖牛を見ました。その白い腹は「ヒマラヤの雪が月かげを浴びたかのよう」でした。聖牛は「人を焼く煙をとおして、おぼろげに、その白い厳かな顔を」本多のほうへ向けたのです。
11年後、御殿場の別荘の火事のとき、本多はこの体験を思い出します。火事の情景はベナレスそのものです。ただ、あの白い聖牛の顔だけがありません。
「ヒマラヤ」は古代サンスクリット語で「雪の住居」を意味します。「雪」は「ヒマ」、住居は「アラヤ」で、これは唯識論でいう「阿頼耶識」のアラヤと同じです。
『暁の寺』十八によると、唯識論では眼・耳・鼻・舌・身・意の六識に加えて第七の「末那識」を立てますが、これは個人的自我の意識のすべてを含みます。その先、その奥に阿頼耶識という究極の識を立てます。「阿頼耶」はもちろん音訳ですが、意訳は「蔵」です。存在世界のあらゆる種子を包蔵する識ということのようです。
火事から逃げた本多は夏の富士山を見て、見つめた目をかたわらの朝空へ移します。そこに冬の富士の幻が浮かびます。この「冬の富士」こそ、白い聖牛の顔だったのではないかと思われます。
『天人五衰』では、本多が月修寺門跡の聡子を思い出す場面で「ヒマラヤの雪」という表現が出てきます。
「まるでヒマラヤ雪山の寺のように(中略)月修寺は今や白雪の絶巓にあるかのごとく思いなされ・・」
最後に本多は月修寺を訪れ、白衣の門跡と御附弟に導かれて、阿頼耶識そのもののような庭を見つめることになります。
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