「或るお役所で呑気な若い事務官が、台湾バナナの輸入計画の数字を写しまちがえ、0を一つ少なく写してしまいました。尤もこんなまちがいはしょっちゅうあることで、私も役所の事務官時代、小説を書いて寝不足で登庁するものだから、6を9とまちがえたり、8を3とまちがえたり、「もう君の数字は信用ならん」とドヤシつけられました」
この事務官の間違いは気付かれないまま閣議まで上り、バナナ好きの別の大臣に間違いを発見され、大臣→局長→課長→事務官と罵倒されることになりました。
三島はここで「人間の意志のはたらかないところで起る小さなまちがいが、やがては人間とその一生を支配するというふしぎ」を語ります。それも面白いですが、「0の恐怖」から別のことを私は考えました。
「0の発見」は数学の最も偉大な発見の一つです。古代ギリシア人も気付かなかった0にインド人は気付き、位取り記数法を発明しました。漢数字やローマ数字は書くだけでも大変ですし、数が大きくなるにつれて無限に多くの数字が必要になります。インド・アラビアの位取り記数法では、十進法なら十個の数字だけでどんな大きな数も表せて、とても便利です。
しかし、便利さには落とし穴もあります。それが三島によって「0の恐怖」と言われているわけです。書類などではアラビア数字を避けてわざわざ漢数字を使ったり、「一、二、三」を「壱、弐、参」と書いたりします。これは落とし穴を避ける工夫です。
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