昨日、チームぼそっとさんからコメントを頂き、『暁の寺』のジン・ジャン(月光姫)について考えました。私は双生児の姉が暗躍していると考えていますが、これは新しい問題を引き起こす考えでもあります。
まず、どの場面に出てくるのが本物のジン・ジャンで、どの場面が双生児の姉なのか、見分けるのが難しいのです。
指環(父親のジャオ・ピーが学習院で盗まれ、本多繁邦が洞院宮の店で見つけて買い取り、ジン・ジャンに「返した」指環)をはめているかどうかで分かるかなとも思いましたが、姉妹の指もそっくりでしょうから、はめたり外したりしているかもしれません。本多が覗いていると、ジン・ジャンが指環を外そうとしてやめる場面がありますが「外そうとしてやめた」のであって「外せなかった」のではないようです。
そもそもジン・ジャンが前世の記憶を失っていたのかどうかも怪しくなります。子供の頃のことを何も覚えていないと言ったのは双生児の姉かもしれません。確実に言えるのは、本多が黒子が無いと確かめたプールのジン・ジャンは本物で、「昴のような」黒子があった同性愛のジン・ジャンは姉だったということです。
本多繁邦だけでなく、久松慶子も騙されていたようです。『天人五衰』で繁邦や透と交わす会話からは、入れ替わりに気づいていた様子はうかがえません。
エメラルドの指環はどうなったのでしょうか。別荘の火事から慶子とともに逃げてきた「ジン・ジャン」は「指環?あら、部屋に忘れて来てしまった」と言いますが、実は本物のジン・ジャンは指環をはめて別の場所にいたのではないかと思います。
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『本多はインドで何を見たか』を書いた後で読み返すと、アジャンタのことがほとんどで、ベナレスについてあまり書いてないことに気づきました。しかも『暁の寺』七で本多はカルカッタも訪れていて、詳しく書かれています。まず本多のカルカッタ体験を見てみましょう。
本多がカルカッタを訪れたのは1941年の10月上旬で、たまたま年に一度のドゥルガの祭礼で賑わっていました。ドゥルガはヒンズー教の破壊神シヴァの妻カリー女神の変身の一つで、血なまぐささではカリーよりは穏和な女神だと小説中で解説されています。
本多はカリー信仰の中心になっているカリガート寺院も訪れ、赤い舌を垂れて生首の首飾りをしたカリーの偶像を見ました。後に本多はアメリカの空襲で焼け野原となった東京で蓼科と再会し、「孔雀明王経」を贈られますが、この孔雀明王の原型がカリー女神であることを知りました(ウィキペディアなどで見ると少し違うようですが、三島の解説に従っておきます)。
戦後にジン・ジャンと再会したとき、本多はアジャンタの壁画の女神を連想しましたが、後にはこの孔雀明王をジン・ジャンに見るようになります。
ドゥルガの祭礼では多くの動物犠牲が捧げられます。中でも半月刀で首を切り落とされる黒い仔山羊は、本多に強烈な印象を残しました。
後にアジャンタの滝で、本多は黒い仔山羊が草を食べているのを見ました。私は『本多はインドで何を見たか』で、『春の雪』三で月修寺門跡に弔われた黒い犬のことを書きましたが、本多が思い出していたのは、カルカッタで見た黒い仔山羊だったと思われます。
牡山羊の犠牲壇で祈っていた女と、立ち去った女との間に、どうしてもつながらない断絶があったという記述は、綾倉聡子を思わせるところがあります。
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「君はシラーになろうとしてはいけないよ。ゲーテになるべきだ」
と『詩を書く少年』で三島由紀夫は学生監に言わせましたが、『豊饒の海』をゲーテの『ファウスト』と比べてみると、なかなか面白いものがあります。
『ファウスト』第一部では、学問の無力に絶望した老ファウストが悪魔メフィストーフェレスと契約し、青年に若返ります。そして官能的享楽をきわめようとしますが、それは少女グレートヘン(マルガレーテ)との悲劇をもたらしたのみでした。
第二部の前半でファウストは美を追求します。具体的には南国ギリシアの古典的な美女ヘレナを追うわけですが、これもファウストに真の満足をもたらすことはありませんでした。
そして後半で人々のための創造的活動、具体的には新しい国土の開拓に献身することで、初めて救済にあずかることになります。
『春の雪』の最後で出家した聡子は清顕と会うことを拒み、清顕が病死しますが、『ファウスト』第一部の最後では子殺しで捕まったグレートヘンが死刑を受け入れ、ファウストに救われることを拒絶します。
『ファウスト』第二部前半のヘレナは『暁の寺』第二部の月光姫に当たりそうです。ここでは本多繁邦がファウストのようです。国土開拓に励むファウストは、強いて言えば『奔馬』の飯沼勲か、裁判官・弁護士として働く本多かもしれません。
『天人五衰』では本多繁邦も養子の透もメフィストーフェレスのようで、ファウストが見当たりません。これは三島由紀夫が見た日本の戦後を反映していると考えられます。
『ファウスト』第二部の最後では贖罪の女の一人としてグレートヘンの魂が現れ、「永遠に女性的なるものが我らを引きて昇らしむ」という感動的なフィナーレになります。『天人五衰』の最後は全く違う印象を与えますが、これは本多繁邦がメフィストーフェレスだからでしょう。『ファウスト』ではメフィストーフェレスは決して救われない存在です。もし御附弟が清顕の転生であるなら、いっそう『ファウスト』に似てきます。
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同日追加
晩年のファウストに似ているのは、むしろ勲に殺される蔵原武介か、松枝清顕の祖父辺りでしょうね。

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