『春の雪』後註によると、『豊饒の海』という題名は月の海の一つのラテン名 Mare Foecunditatis の邦訳だとされています。
「月」は月修寺や月光姫の名前にも使われ、月そのものも松枝清顕の御立待の祝いなど、多くの場面に出ています。「海」もこの小説では重要で、特に『天人五衰』冒頭で安永透が三十倍の望遠鏡から眺める海の描写は印象的です。
ところが「月の海」となると、小説の中には全く登場しません(たぶん・・)。透が望遠鏡で月を眺め、「豊饒の海」を見ていた可能性はあると思うのですが。
肉眼でも満月を見ると暗い部分が「兎の餅つき」の形に見えますが、この兎の右の耳の部分が「豊饒の海」に当たります。現在では「豊かの海」と訳されるのが普通です。因みに兎の顔の部分が「静かの海」で、1969年、まさにこの時代にアメリカのアポロ11号が着陸したところです。
「着陸」という表現で分かるように、月には空気も水もほとんど無いため、海といっても名ばかりです。もっとも21世紀の現在では、月にはかなりの量の氷が存在することが分かってきており、鉱物資源も注目されています。
とはいっても、この小説に関しては『豊饒の海』は何もないカラカラの砂漠という、名前とは逆のイメージが考えられるのは間違いないと思われます。最後に本多繁邦が眺める「何もない庭」「記憶もなければ何もないところ」に通じているのでしょう。
アラヤ識などと言われてもよく分かりませんが、そこからすべてが生まれ、そこにすべてが帰っていくもの。
これを理解するにはアリストテレスの形式論理学は邪魔になるようです。本多は恋に病む松枝清顕を前にして、論理学のノートの文字が脳裡から剥がれ落ちるのを感じます。飯沼勲も論理学にも「煤ぼけた教授」にも興味を持ちません。彼らは「豊饒の海」を見たのでしょうか。
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きょう5月2日は、『天人五衰』が昭和45年(1970年)に始まる日に当たります。もちろん作品中の日付で、終わる日は昭和50年7月22日です。
ところが『豊饒の海』の最後には

「豊饒の海」完。昭和四十五年十一月二十五日

とあり、三島由紀夫が市ヶ谷で自決した日付が書かれています。これは現実世界の日付で、ここには三島のメッセージが感じられます。特にこの日付を入れなくても、『豊饒の海』は三島の遺作であるという事実は残るはずなのに、あえて入れたのですから。
『天人五衰』の中にでこの日付を探してみると、数日のズレはありますが、本多透が家庭教師の古沢と喫茶店で会話をする場面があります。ここで古沢は自殺の話を始めて透を驚かせ、僕は自殺は嫌いだが自己正当化の自殺だけは許せると述べ、猫と鼠の話をしました。自分は猫だと信じている鼠が本物の猫に出会って食われそうになり、おまえが猫ならそれを証明してみろと言われて、洗剤だらけのタライに飛び込んで自殺したというのです。
この猫と鼠の話は、作品中での透の自殺未遂と失明につながっているように思われます。鼠が透だとすれば、猫は久松慶子ではなく、松枝清顕でしょう。透は清顕に会ってはいませんが、清顕の夢日記を読んで自殺を図りました。でも三島自身の自決とは、直接のつながりは無さそうです。
直接つながりそうなのは、やはり『奔馬』の飯沼勲です。

正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇った。

美しい文章ですが、三島の自決が重なってしまうために、清顕や月光姫の死とは違う感慨を持たざるを得ません。
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『天人五衰』の最後は、この作品の大きな謎です。本多繁邦が60年ぶりに訪れた月修寺で、門跡の綾倉聡子は松枝清顕を知らないというのです。聡子は老人性痴呆であったと言ってしまってはつまらないので、真面目に考えてみましょう。
『春の雪』三十六で、清顕が聡子に「君はのちのちすべてを忘れる決心がついているんだね」と問いかけ、聡子が「ええ」と答える場面があります。聡子はこの決心によってすべてを忘れたのかもしれません。
本多は『春の雪』の最後で清顕を聡子に会わせようと月修寺を訪れ、熱弁をふるいますが門跡から拒絶されます。そのあと門跡から仏教法相宗の唯識の教義を説かれ、その場では分からなかったわけですが、これを契機に本多は唯識論にひかれてゆくことになります。
『暁の寺』第一部のタイとインドへの旅を経て、戦時中に本多は精神世界の研究に没頭しますが、ここで三島は唯識論の詳しい解説をしています。ここは小説の中では浮いた印象を与えるのは確かです。私もよく分かりませんし、三島もどこまで分かっているのかなと思ったりもします。一方、小室直樹氏のようにこの部分を高く評価する人もいます。
唯識論からすれば、門跡(聡子)が最後に言っている内容は特に不思議ではないのかもしれません。今や悟りの高みにいる門跡にとって、俗世での愛欲の記憶など価値はないのでしょうが、俗人から見ると冷たいように感じられます。
私が気になるのは、聡子が昔は使わなかった関西弁で話していることです。奈良に移ったのだから当然かもしれませんが、聡子は本多を「ようこそ」と迎え、慎重に本多の様子を見ているように思われます。本多の話し方が軽佻になったところで、笑って関西弁で話し始めています。私が考えるように御附弟が清顕の生まれ変わりとすれば、この場面は全く違って見えてきます。
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