『天人五衰』で本多繁邦が安永透に初めて会う場面で、本多はこんなことを考えます。
「その生涯を通じて、自意識こそは本多の悪だった。この自意識は決して愛することを知らず、自ら手を下さずに大ぜいの人を殺し(中略)自分だけは生き延びようとしてきた」
びっくりする文章です。本多はそんな極悪人でしょうか。考えられることとしては、判事だった頃に死刑判決に関与しただろうというくらいで、それも法律に従っただけのことでしょう。まして弁護士になってからは、人の罪を軽くすることは有っても重くすることは無かったはずです。本多は松枝清顕や飯沼勲を救おうと必死に動いたのではなかったのでしょうか。
しかし、『春の雪』の最後で本多は肺炎に苦しむ清顕を前に後悔します。清顕にお金を渡して月修寺行きを手助けしたのは、本当の友人の行為であったかと。すぐに東京へ連れ帰らずに、自ら月修寺を訪れて門跡に熱弁をふるったことも後悔したかもしれません。
『奔馬』で本多は飯沼勲を弁護するために判事を辞めるという大きな決断をし、勲を釈放させることに成功しました。ところがこれが仇となって、勲は一人で蔵原歩介を暗殺し、切腹することになってしまいました。
『暁の寺』の御殿場の火事は、今西と椿原夫人の心中のように見えます。二人ともお互いに、周りの人間にも自殺願望を隠しませんでした。それでも本多は自殺だとは思わず、久松慶子も同じ考えでした。
推理小説的に読むと、腕時計をしてズボンも穿いている松戸運転手が怪しそうですが、慶子が「今西さんの部屋からだわ」と言っているのを見ると、やはり失火のようです。
本多はこの火事でベナレスを思い出します。「あの聖地で究極のものを見た本多が、どうしてその再現を夢みなかった筈があろうか」
これこそ本多の「悪」だったように思われます。
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昨日、私は輪廻転生は魂の問題であると書きました。ところが、こう言ってしまうと少し困ったことになります。三島は『奔馬』で本多繁邦が能『松風』を見る場面で、次のように書いているからです。
「仏教では、(中略)我の存在を否定してしまうから、霊魂の存在をも決して認めない。ただみとめるのは(中略)唯識論にいう阿頼耶識(あらやしき)である」
仏教は霊魂を認めないというのです。『暁の寺』二でも
「仏教は無我を称えて、生命の中心主体と考えられた我を否定し(中略)「霊魂」をも否定した。仏教は霊魂というものを認めない」
そして十八では
「唯識は、一旦「我」と「魂」を否定した仏教が、輪廻転生の「主体」をめぐる理論的困難を、もっとも周到精密な理論で切り抜けた、目くるめくばかりに高い知的宗教的建築物であった」
と、唯識論を称揚しています。
三島のこの見解に全面的に賛成するのが小室直樹氏で、天山文庫の『三島由紀夫と「天皇」』では『暁の寺』の上記の箇所を引用した上で
「仏教は霊魂というものを認めない。くれぐれも、このことを銘記しておいて頂きたい。日本人はたいがい、仏教とは、死後の霊魂の面倒をみる宗教だと思いこんでいる。これ以上の仏教誤解は、またと考えられない」
と書いています。
一方、佐保田鶴治氏は平河出版社の『ヨーガの宗教理念』で正反対の見解を述べます。
「仏教は無我論を説くから、たましいの存在を否定するなどというのは浅薄な俗見である。(中略)仏教で否定する我は時間の中に変転してゆく現象的心理のなかに現われる観念の一つに過ぎない」
どうも、この対立は対立ではなく、言葉の行き違いに過ぎないように思われます。
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三つの黒子は『豊饒の海』では「転生のしるし」であると考えられています。しかし、これは不思議なことではないでしょうか。虚心に考えれば輪廻転生は純粋に魂の問題であって、肉体の問題ではないはずです。『暁の寺』で幼いジン・ジャンが祖母の肖像画の前で
「私は体だけをこのスナンター妃から受けついだの。心は日本から来たの」
と本多繁邦に言った通りです。なぜ本多は三つの黒子を転生のしるしと信じるようになったのでしょうか。
それは飯沼勲に、松枝清顕と同じ黒子があったからでした。勲との出会いと、滝の下でまた会うという清顕の遺言との符合、お前は荒ぶる神だという飯沼茂之の勲への言葉と、清顕の夢日記との符合。転生の証拠はそれであって、三つの黒子という体の特徴は、輪廻転生ではなく親子や兄弟のつながりを表すものと思われます。
実際、『奔馬』十二には注目すべき記述があります。勲の父は茂之、母はみねですが、みねにとって二度目の出産で生まれた一人息子でした。最初の妊娠のとき、どう日数を数えても松枝侯爵の子か茂之の子かはっきりしないので、茂之が堕胎させたというのです。
では勲ははっきりしているかというと、そうでもなさそうです。みねは勲を見て、茂之に似ているようでもあり、似ていないようでもあると感じます。もし勲の父が松枝侯爵なら、清顕と勲は異母兄弟ということになり、三つの黒子は「兄弟のしるし」ということになります。
本多は幼いジン・ジャンが前世の記憶を語り、それが史実と一致しても「なぜ黒子が無いのか」と不思議がります。成人したジン・ジャンに黒子を見つけて初めて転生を信じます。同じ黒子があるというだけで安永透を養子にします。これは本多の勘違いであり、それが「昴(すばる)のような」という奇妙な表現で表されていると思われます。
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