倭の五王(讃、珍、済、興、武)は五人いたと普通は考えられていますが、実は四人しかいなかったようです。珍と済は同一人物だったと思われるからです。
宋書倭国伝では「讃死して弟珍立つ」「済死す。世子興、使を遣わして貢献す」「興死して弟武立つ」と記していますが、珍の死と済の即位は書かれていません。これは珍が済と改名した同一人物だからでしょう。
珍は使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と自称しましたが、宋から認可されたのは安東将軍倭国王だけでした。珍はこれに不満で、百済の「済」に名前を変えて再度朝貢しましたが、百済の軍事権は最後まで認められませんでした。
この後、倭国は中国から離れて独自の道を歩いていくことになりました。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
宋書倭国伝では「讃死して弟珍立つ」「済死す。世子興、使を遣わして貢献す」「興死して弟武立つ」と記していますが、珍の死と済の即位は書かれていません。これは珍が済と改名した同一人物だからでしょう。
珍は使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と自称しましたが、宋から認可されたのは安東将軍倭国王だけでした。珍はこれに不満で、百済の「済」に名前を変えて再度朝貢しましたが、百済の軍事権は最後まで認められませんでした。
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