倭の五王(讃、珍、済、興、武)は五人いたと普通は考えられていますが、実は四人しかいなかったようです。珍と済は同一人物だったと思われるからです。
宋書倭国伝では「讃死して弟珍立つ」「済死す。世子興、使を遣わして貢献す」「興死して弟武立つ」と記していますが、珍の死と済の即位は書かれていません。これは珍が済と改名した同一人物だからでしょう。
珍は使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と自称しましたが、宋から認可されたのは安東将軍倭国王だけでした。珍はこれに不満で、百済の「済」に名前を変えて再度朝貢しましたが、百済の軍事権は最後まで認められませんでした。
この後、倭国は中国から離れて独自の道を歩いていくことになりました。
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5世紀に中国の南朝・宋に朝貢した「倭の五王」ですが、その名前の由来を調べてみました。
一般的に知られているのは武(雄略天皇)が「ワカタケル」の「タケル」に由来すること。少しマニアックになると讃(応神、仁徳、履中の各説あり)が応神天皇の「ホムタワケ」の「ホム」に由来するという説もあります。
興(安康天皇)については考古学者の森浩一氏が調べ、安康天皇(アナホ)の名代「穴穂部」が「孔王部」とも書かれ、穴→孔→興の関連が考えられています。
後は私の独自調査です。済(允恭天皇)という漢字は救済を意味し、「救う」「済う」の読み方から、允恭天皇の名前の末尾「宿禰(すくね)」の漢訳でしょう。
一番分からないのは珍(仁徳、反正の各説あり)ですが、私は珍=仁徳で、仁徳天皇は大阪に縁が深く、古くから大阪湾を「茅渟(ちぬ)」の海と呼び、珍(ちぬ)とも表記されたことから名乗ったのではないかと考えています。
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私は最近、満60歳になりました。「還暦」とも言います。十干十二支で言う「壬寅」(みずのえとら)の年に生まれ、それから60年が経ちました。
60は10と12の最小公倍数であるため、干支は60年で一周するわけですが、60は約数が多い数です。

1, 2, 3, 4, 5, 6, 10, 12, 15, 20, 30, 60

実に12個の約数があります。1分を60秒、1時間を60分とするのは古代バビロニア以来ですが、このように便利な数であるため、古くから重視されたのでしょう。
これからどれだけ生きるかは分かりませんが、一日一日を大切に生きていきたいものです。
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