奈良時代に始まった日本と渤海の交流は平安時代の前期まで続きますが、926年に契丹が渤海を滅ぼしたことで終止符が打たれました。契丹は渤海の故地に「東丹国」という属国を作りました。戦前の日本が満州国を作り、アメリカが戦後の日本を作ったようなものです。
渤海が滅ぼされた3年後の929年、東丹国の使者が丹後国(京都府京丹後市)に到着しました。大使は璆(はいきゅう)と言い、渤海の大使として2度来日していた人物でした。朝廷は藤原雅量を丹後に派遣して事情を尋ねました。雅量は裴大使と親交があり、裴大使は気を許したのか、渤海国が契丹に滅ぼされたことを伝えただけでなく、契丹の残虐非道ぶりをも訴えました。朝廷は「二君に仕えたばかりか、新しい主人の悪口まで言うとは不義不忠である」として使者を追い返しました。
藤原雅量は裴大使に同情し、後に彼を回想した漢詩を残しています。
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『日本書紀』が神功皇后紀で『魏志』倭人伝を引用し、年代決定の史料としたらしいことはよく知られていますが、『後漢書』倭伝は引用されていません。しかし私の見るところ、『日本書紀』編者は崇神天皇から神功皇后までの年代を『後漢書』倭伝を用いて決めたと思われます。
現代の日本でも、中国の史書と言えば『史記』と『三国志』が大人気であり、その間の『漢書』と『後漢書』は全く人気がありませんが、唐の時代には『史記』『漢書』『後漢書』が「三史」と言われるほど重要でした。『史記』『漢書』は倭や日本の記事がほとんど無いので、まとまった記事としては『後漢書』倭伝が最初です。ただ『後漢書』は『三国志』より後の5世紀に編纂されたため、その倭伝は『魏志』倭人伝のコピぺに過ぎないと軽視されがちです。しかし『魏志』倭人伝に無い独自の記事があり、微妙な相違も多く、単なるコピぺではありません。
『日本書紀』のヤマトタケルの年代が西暦107年の倭国王帥升と合うこと、タジマモリの年代が57年の倭奴国大夫と合うのは偶然ではないと思われます。崇神天皇の即位が西暦紀元前97年とされているのも、『後漢書』倭伝が武帝の朝鮮征服(紀元前108年)から始まっているのに合わせているようです。
もちろんこの年代は『日本書紀』の建前であり、これが史実でないことは編者も知っていたでしょう。淡海三船は初期の天皇の漢風諡号で彼らが考えていた実年代を暗示したと思われます。
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井上靖の『天平の甍』は奈良時代の唐僧、鑑真の来日を主題にした歴史小説ですが、主要な登場人物の一人に戒融がいます。この戒融は『続日本紀』の2か所に出ており、井上は小説の最後でその史実を明かしています。

この年(天平宝字8年=764年。引用者注)、新羅使節金才伯が来朝して、渤海国経由で新羅に来た唐勅使韓朝彩の依頼で、さきに唐より渤海国を経て日本へ向った日本留学僧戒融の帰朝の有無を訊ねたことがあった。このことから判断すると、戒融は再び故国の土を踏まないといっていたその志を曲げて、いつか日本へ帰っていたのかも知れない。この戒融の帰国の裏づけと見なしてよさそうなもう一つの史料がある。それは天平宝字7年に、戒融という僧侶が優婆塞一人伴って唐から送渤海使船に乗って渤海を経て帰国したが、途中、暴風雨に遇い、船師が優婆塞を海に投じたということが古い記録に載っていることである。

新潮文庫の解説で山本健吉は戒融について「その行動は、日本に何物ももたらさず、広大な国土の中に消え失せて行ったというべきだが、生きようとする自分の意志、確かめようとする自分の疑問に対して、誰よりも忠実だったと言える」と評しています。

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