中曽根康弘が101歳で死去しました。ついに日航ジャンボ機「事故」の真相を語ることはありませんでしたが、いつか事実が明らかになることを望みます。
中曽根は田中角栄と同年同月生まれでしたが、二人を比べると余りに対照的な政治家だったと思わざるを得ません。一兵卒として満州国に送られた角栄と、海軍主計少佐として命令する立場だった中曽根では戦争観が全く違うのは当然でしょう。日本国民を第一に考えたためにアメリカに潰された角栄と、グローバリズムの走狗となって長期政権を築き、日本の衰退と破壊を促進した中曽根はまさに対極と言えそうです。
1985年2月に田中角栄は脳梗塞で倒れましたが、8月に日航ジャンボ機墜落「事故」が起きました。角栄が倒れていなかったら、520人は殺されることは無かったかもしれません。
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668年に高句麗が滅びた後、698年にその後継を自称する国が誕生しました。渤海(ぼっかい)国です。この国は旧敵の新羅や唐に対抗するため日本との修好を図ります。727年に日本に向けて派遣された大使・高仁義以下24人の一行は道に迷って蝦夷(えみし)の地に漂着し、大使を含む16人が殺されてしまいます。生き残った高斉徳以下8人が奈良の都に入り、聖武天皇に拝謁します。
高斉徳が持参した国書で、渤海の武王は自分の国について「高句麗の領土を回復し、扶余の遺俗を守る」と説明しています。渤海が滅びるまで200年以上に亘って日本との友好的な関係は続きました。
20世紀に日本の関東軍が満州国を建てた時、渤海の歴史が思い出された時期がありました。戦後は再び忘却されますが、また復活することもあるかもしれません。
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高句麗の太祖大王(宮)は生まれながらに目を開き、物を見ることができたと『三国史記』高句麗本紀に記されています。井上秀雄氏は次のように注釈しています。

『三国志』高句麗伝の位宮(東川王)の記事からとったもので、そこには「国人がこのことを嫌った」とある。『後漢書』高句麗伝にはこの記事につづいて「国人は宮に期待した」とある。前者は中国人の感想が混入したものとみられ、この表現は高句麗人の理想的な王者像の一つである。

要するに「ものがよく見えた」ということの伝説化でしょうか。三島由紀夫が『仮面の告白』で、生まれた日の情景を覚えていると書いていたことが思い出されます。三島は朝鮮嫌いで、高句麗の歴史などは関心がなかったと思われますが、もし知っていたら興味を持っただろうと思います。
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