オリンピックに続いて「パラリンピック」が始まります。この「パラリンピック」には私は強い違和感を覚えます。
まず「パラリンピック」という名前自体が「オリンピック」から造られた新語であり、不自然さが拭えません。それに加えて障害を持つ人々にオリンピックの真似事をさせるというのも疑問があります。
稲垣足穂は『白昼見』で次のように書いています。
巷で折にふれて見かけるびっこの人、せむし、また顔面にしみのある人などが、何故か近頃、以前に見たところとは異って、たいそう縁起の良い存在としてわが眼に映じる一事に、わたしは気が付きました。(中略)いわゆる片輪の人々にあっては、普通人が自らの対象として日夜あくせくしているような、一切のくだらない題目が断念されている。
これは誤解を招きやすい文章ですが、足穂の世界観の中ではごく自然な文章です。全文を読めば納得されるでしょう。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
まず「パラリンピック」という名前自体が「オリンピック」から造られた新語であり、不自然さが拭えません。それに加えて障害を持つ人々にオリンピックの真似事をさせるというのも疑問があります。
稲垣足穂は『白昼見』で次のように書いています。
巷で折にふれて見かけるびっこの人、せむし、また顔面にしみのある人などが、何故か近頃、以前に見たところとは異って、たいそう縁起の良い存在としてわが眼に映じる一事に、わたしは気が付きました。(中略)いわゆる片輪の人々にあっては、普通人が自らの対象として日夜あくせくしているような、一切のくだらない題目が断念されている。
これは誤解を招きやすい文章ですが、足穂の世界観の中ではごく自然な文章です。全文を読めば納得されるでしょう。
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コメント
コメント一覧 (16)
capelaurig
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霊界の話は現界とは異って、率直で簡明であり、濃厚複雑等の説話は、神の最も忌み玉ふところ、女にも子供にも、どんな無知識階級にも、なるべく解り易く平易簡単にして、明瞭なるを主眼とするが故である。
本巻は、いよいよ天津神の命により諾冊の二尊が、天照大御神の御魂の大御柱を中心に、天より降り、天の浮橋に立ちて、海月なす漂へる国を修理固成し玉ひ、現代の我日本国即ち豊葦原の瑞穂の中津国を胞衣となし、かつ神実として、地上のあらゆる世界を修理固成し玉うた神界経綸を述べたものであります。舞台は、地球上一般の神人界に渉った出来事であって、区々たる極東我神国のみの神話を写したものでない事は勿論である。
太古の御神政は神祭を第一とし、次に神政を行ひ、国々の国魂神は国々の神王、又は八王などと云って八尋殿を建てられ、至聖処に祭壇を設け、造化三神を鎮祭し、神王および八王は、同殿同床にて神明に奉仕された。(十代崇神天皇の代で、同殿同床が解かれ笠縫の邑に別殿として祀り、乱れた)
神政は左守神又は右守神(或は八頭神とも云う)に神示を伝へ神政を司掌らしめ玉うた。
(第6巻 霊主体従 総説)
capelaurig
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――和一郎の話は嘘やなかった。しまいに鉄棒でしばかれるかも知れんぞ。しばかれるのん、親父だけでたくさんや。
鉄棒で吉田先生に頭を割られる幻想が喜三郎の登校の足をすくませた。登校途中で和一郎たち悪友をそそのかし、山へ逃げて遊んだ。退屈で窮屈な席に怯えて坐っているより、山をはね廻り川で魚をとる方が、よほど生甲斐があった。弁当を食べ、下校の時刻をみはからって家へ帰った。習慣になった。
そんなある日、吉松は帰宅したばかりの喜三郎の風呂敷から小学読本を抜き出し、「読んでみい」と言った。吉松はもともと、高い月謝をはらって息子を小学校へやることなど、大反対であった。しかし宇能と世祢が強く主張すると、養子の身でそれ以上はさからえなかった。意に反して小学校への通学という贅沢を許したからには、それだけの効果を性急にたしかめたかった。
喜三郎は、仮名文字ばかりの読本を開いて、生まじめに父の前に立った。決して文字の読めぬ善良な父をだますつもりはなかった。まして恐い父を馬鹿になど……しかし戸長に新聞を読み聞かせる身が、いまさら小学読本でもなかった。どうせ読むなら、退屈な読本より面白い物がええやろう。さて何を……。
capelaurig
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国祖国治立命(こくそくにはるたちのみこと)は天教山に隠れ、世界の大峠を免るることを汎く地上の神人に告げ諭し、大難を免れしめむとして、宣伝使神を任命し、地上の世界に派遣せしめ玉うた。これが神代における、治教的宣伝の濫觴であったのである。宣伝使神は多芸多能にして、礼、楽、射、御、書、数の六芸に通達している神人ばかりである。一身を神に捧げ、衆生救済の天職に喜びて従事されたのである。
その後、埴安彦、埴安姫の二神司が地上に顕現して麻柱教(あななひのおしへ)を説き、宣伝使を任じて世界を覚醒し、神人の御魂の救済に尽さしめた。宣伝使もまた、士農工商の道に通達し、天則を守り忍耐を唯一の武器として労苦を惜まず、有らゆる迫害を甘受してその任務を尽した。現今の各教派の宣教使の安逸遊惰なる生活に比すれば、天地霽壌の差がある。(第6巻 霊主体従 総説)
capelaurig
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「お髭ばかして調練させて、薮で狸が腹だいこ……羽根をつく子はひとごとふたご、どこのお髭の嫁ごだろ……金がありゃこそお髭のちりを、はらうつらさも間夫のため……顔のきれいな狐にあえば、鉄砲打つ身もだまされる……恋の重荷を山ほどつんで、色の港へ通い船……」
文字通りの意味しかわからぬ子供である。調子にのって読み上げるのをふんふんと感心して聞いていた吉松は、顔の紐をほどいて笑いかけ、慌ててぐっとこらえた。
「もうええ、なかなか上手に読めるようになったのう。続きはまた明日や」
息子を放免したが何やら落ち着かぬ。
「こうっと、色の港へ通い船……か」
くり返してみて愕然となった。
「こ、こりゃ都々逸やんか。学校では何ちゅうこと教えさらすのや。高い授業料とりくさってからに……」
癇癖の強い吉松である。勢いこんで学校へどなりこみ、吉田有年の胸倉しめ上げた。だがやがて、癇癖を二乗にして走り帰る。読本で風流の道など教えぬこと、喜三郎はさっぱり学校へ顔出さぬことなどを逆に説教され、赤恥かいたのである。帰るやいきなり、喜三郎の額に煙管の雁首をくらわした。
「先生ならまだしも、親までだましくさって、こ、この餓鬼め」
二度目が落ちぬ先、喜三郎の体は庭をつっきって道にとび出していた。おでこから流れ出る血を手で押さえながら、つい目と鼻の先の金剛寺へかけこんだ。(大地の母 青春の詩)
capelaurig
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神示の方舟は暴風に揉まれつつ、木の葉の散るごとき危うき光景にて、高山の巓めがけて漂着せむと焦りをる。この方舟は一名、目無堅間の船といひ、ちょうど銀杏の実を浮べたる如くにして、上面が全部樟の堅固な板で、中高に円く覆はれ居り、わづかに側部に空気孔が開けあるのみなりける。
船の中には神人を初め、牛馬、羊、鳥等が一番宛各自に入れられ、数十日間の食物が用意されありける。
一般蒼生は数多の禽獣や虫のために、安眠することも出来ず、雨はやまず、実に困難お極めたりける。一般人は宣伝使の宣伝歌を今更のごとく想ひ出し、悔悟の念を喚び起し、俄に神を祈願し始めたれど何の効験もなく、風はますます激しく、雨は次第に強くなるのみなりき。総ての神人は昼夜不安の念に駆られ、ここにいよいよ世の終末に瀕せることを嘆き悲しみけり。
現代の賢しき人間は、天災地妖と人事とには、少しも関係無しと云ふもの多けれど地上神人の精神の悪化は、地上一面に妖邪の気を発生し、宇宙を溷濁せしめ、天地の霊気を腐穢し、かつ空気を変乱せしめたるより、自然に天変地妖を発生するに至るものなり。(第6巻 霊主体従 大洪水)
capelaurig
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本堂は黄昏の暗さであった。奥の間にかくれ、しんと鎮まり返った中で、喜三郎は傷の痛みにすすり泣いた。暗さに慣れた目の前に、お釈迦さまが坐している。涙の眼で左を見、右を見て、喜三郎は泣き声を止めた。
「金剛寺の奥の間にこわい部屋があってのう、夜半になると物すごい波風の音がするそやぞ」と、村の誰かが言っていた。するとこの部屋が……。
正面の連絡する襖一面の絵から不思議な轟きが湧きおこる。岩をかんでくだけ散る波涛、風が波浪を呼んでうねる。その無音の呼号に息をつめ、喜三郎は祖母のいう言霊を思った。仏壇の向かって左に山水図、対する右にはひょうひょうとした仙人の群が裾をなびかせ、霞の彼方から朱色の口唇で語りかけている。喜三郎はその言葉を聞きとろうと、ひざまずいた。
と、襖がひらいて、仙人ならぬ和尚が入ってきて眼をむいた。
「誰じゃ、そこにいるのん」
父吉松に負けぬ怒声であった。和尚栗山禅味、この年五十五歳。
「これ、誰の絵や」、と喜三郎が襖をさす。襟首つかんだ禅味は、少年が上田の小伜であることに気がついた。よく境内にいて、顔さえみれば、「これは何」と聞きたがるおかしな奴だ。禅味は言った。
「応挙の絵じゃ、円山応挙――」
capelaurig
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『神の形に造られて、神に代って御用を致す人民の、一日も早く、一人でも多く、心の立替立直しをして、誠の神心に成ってくれよ。』と示し給ふたのは、この理に基くものである。また、
『人民くらい結構な尊いものは無いぞよ。神よりも人民は結構であるぞよ。』と示されあるも、人間は万物普遍の元霊たる神に代って、天地経綸の主宰者たる可き天職を、惟神に賦与されて居るからである。
古今未曽有のかくの如き天変地妖の襲来したのも、全く地上の人類が、鬼や大蛇や金狐の邪霊に憑依されて、神人たるの天職を忘れ、体主霊従の行動を敢てし、天地の神恩を忘却したる自然的の結果である。
神は素より至仁至愛にましまして、只一介の昆虫といへども、最愛の寵児として之を保護し給ひつつあるがゆへに、地上の人類を初め動植物一切が、日に月に繁殖して天国の生活を送ることを、最大の本願となし給ふなり。
『神を恨めてくれるな。神は人民その他の万物を、一つなりとも多く助けたいのが神は胸一杯であるぞよ。神の心を推量して万物の長と云はるる人民は、早く改心いたしてくれ。神急けるぞよ。後で取返しのならぬ事がありては、神の役が済まぬから、神は飽くまでも気を付けたが、もう気の付けようが無いぞよ。神は残念なぞよ。』との神諭を、我々はよく味はねばならぬ。(第6巻 霊主体従 大洪水)
capelaurig
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