私は長いことアパートで一人暮らしをしていましたが、年老いた父親が転倒して重傷を負ったことで、生活を大きく変えることになりました。
母親は以前から施設に入っているため、このままでは実家は空き家になるはずでしたが、そこに私が一人で住むことになりました。どうなるか分かりませんが、手探りでやっていこうと思います。
このブログもどうなるか分かりません。今は続けようと考えていますが、中断せざるを得ないかもしれません。ヤフーブログの消滅によってライブドアブログに移り、更新ペースを落としながらも今まで続けてきましたので、なるべく継続したいと思います。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
母親は以前から施設に入っているため、このままでは実家は空き家になるはずでしたが、そこに私が一人で住むことになりました。どうなるか分かりませんが、手探りでやっていこうと思います。
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コメント
コメント一覧 (12)
つまり、日本の司法は「高度な政治性」の名のもとに、その独立性が歪められ、司法と政府が一体となって砂川事件に当たったのである。
どうして日本はそうまでして卑屈になれるんだろう?そうまでして献身的にアメリカの日本支配に協力的になれるんだろう?
もうひとつ不満があるのは、こういった事実を外国から知るという情け無いハナシだということです。
日本で起きたことなのに、日本人が日本国内で検証するすべもない体制と体質、政府にとって都合の悪い「真実」が国内から表面化しない国家というのは、国のあり方として大いに疑問が残る。
ところで、法律にたずさわる職業家、たとえば判事・検事・弁護士・法学者などは、あたりまえのことですが法律として書かれた文言から一歩も枠外へでることなく、その範囲内であれこれ解釈して生きている、ということを念頭におく必要がある。
たとえば、もしもわたしが一国の独裁的な王だとして、家来に命じて自分に都合よい法律を書かせたとする。
そうすると、どんなに頭の良い法律家であろうとも、独裁者たるわたしの自分勝手で都合のよい法律の文言のなかで、あれやこれやと解釈するしか手立てがないわけである。
日本国憲法一~九条はまさしく日本人(左右を問わず)をあやつり人形にするカラクリがある。
憲法一~八条によって、天皇ヒロヒト氏は生かされた。恩を施された日本人はアメリカに逆らえないことになった。
エノラゲイという爆撃機に搭載された原爆に書かれてあったメッセージはDear Hirohito。
capelaurig
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かの国は、ヒロヒト氏および日本人全員を嫌悪していた、しかし65歳の老獪なマッカーサはヒロヒト氏を生かした、それだけで日本人はおとなしく従順になった。
ヒロヒト氏の戦争責任はこの点にある。
敗軍の将を、わたしは戦争責任の理由とはしない、「生かされた」ことを戦争責任と考えるのである。
ヒロヒト氏は御前会議において、宣戦布告を裁可した時点で、もし日本が敗戦した場合のことを考えてみたことはいっさい無かったのだろうか?
実質的には東条英機が影の最高実力者であったとしても、ヒロヒト氏は天皇という名義をブランドを看板を東条に貸し与えたのである。
一兵卒からすれば、天皇ヒロヒトという名義は、志気が高揚し、誇らしげに戦える正義心を鼓舞する絶大な効果があった。この方の為なら自分は死ねる、とまで考えることができた。
天皇陛下バンザイと叫んで死んで逝った兵士たちは、自分はいま死んで行くけれど、天皇陛下どうぞ後のことを大日本帝国のことを宜しくおねがいします、と死んで逝ったのではなかったのか。
命を賭してまでの戦争ではなかった、とヒロヒト氏が考えていたのだとさいしょっからわかっていたなら、兵士たちはそんな戦争の為に自分が死ぬなんてバカバカしい、と思ったにちがいない。
自分らは命を捧げて戦っているのに、最高の位にあるお方に本気度がなかったならば、死ぬ覚悟も決めてない天皇と知っていたなら、自分の死は「犬死にだ」とだれもが考える、生きて虜囚の辱め、なぞウソっぱち、と悟ったことだろう。
ヒロヒト氏と東条英機のふたりを国民の目に一連托生と映ったのだ。
それなのに、マッカーサーらの計画どおり狙いどおり、独裁者の汚名と責任を東条英機らにおっかぶせ転嫁して、あなたは生かされた。
capelaurig
が
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わたしはこの人物を考えるとき、煮え切らないこの人にやりきれなさを覚える。ミカドというものはこういう種類にできているのか?
煮え切らない性格が災いして、ほんらい助かったかもしれない敵・味方に関係なく数百万数千万人の尊い命が失われたことを思うと、まったくやりきれない。
そもそもどこの国でも、王様の基礎を築いた者の始まりというものは、残酷冷酷な人物の極みであった。親子・兄弟・親戚どおしが血で血を洗う凄惨なことを平気でやってのけたような一族だった。源氏と平家の争いも、天皇家を軸とした遠い親戚どおしだった。
自分の一家六人を殺害したのち本人は橋の上から飛び降り自殺したというニュースが報道されたけれど、想像してみればいい、そういう種類の人物が血縁の人を斬り殺す光景を、目撃した近所の農民に返り血を浴びた壮絶な顔でふりむいた目に、古代の農民が震えおののく光景を想像すればいい。
どこの国の王も、そういう種類の人間のまさしく子孫である。サダムフセインをキムジョンウンを見るがいい。彼らはまさに黎明期の王たちだ。
時代がくだって、当時の生々しい記憶が薄れ、体制ができあがり、神話がつくられ、庶民から自動的に尊敬されるようなものが確立されると、わが手で鋤・鍬・織り機を持たなくとも、しもじもが米や衣服を上納してくれる頃には、歌舞音曲に親しんゆで優雅に暮らせるのだ。
わたしに物心がついた頃、この国にエンペラーが存在することを見聞で知った、しかしそれは社会が決めたことであり、わたし個人がそのお方をエンペラーと決めたわけではない。
capelaurig
が
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ノーベル賞をもらった人を「すごい人だ」と褒めても、その息子まで褒めることはない。腫物にでも触れるようなデリケートな目でエンペラーを見ることなどわたしにはない。空を飛ぶような人間としてではなく、ふつうの人間として彼らを見る。
ハナシを憲法にもどし、…「生かされた」ことが戦争責任の理由とするのである。いまとなっては仕方ないことだ、ヒロヒト氏は亡くなった、すべては終わったが、米軍基地はいまも居座っている。
そして第九条、これがまた曲者だ。
新聞に書かれてあるように、憲法九条は、日本はみずから「指揮権、管理権」を行使できない。
米軍は日本の管理下にない、日本の治外法権だ、だから米軍駐留に違法性も問題もない、という方程式になっている。
「くそったれのマッカーサー、日本人は13歳というあんたの言葉は、あんたにしちゃよくできた名言だ!!」
コップのなかの嵐のように、戦後の70年間、日本は右だの左だのが子供のケンカのように互いが罵り合い、どつきあってきた、そして自分の軸足をどちらか一方に置くようなすり込みをされて、そうするような対立の構図で物事を考えさせられてきた。
その間、アメリカは、痛くも痒くもなく、涼しげな顔で着々と支配を不動のもの、確固たるものとした。
かつての日本は満州経営をしていたけれど、いまの日本人は満州人とおなじ目に遭っている、いや彼らより愚かかもしれない。
わたしが「米軍を追っ払え」と、突き動かすものは、心底不快だから。
その不快感は正直に言ってわたしのなかのナショナリズムがそうさせるのだと思う。ナショナリズムがまったくない人は、外国軍の駐留を何とも思わないだろう。
capelaurig
が
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日本人一般はナショナリズムを危険視する傾向があるけれど、よく考えてみて、米軍はアメリカナショナリズムの代名詞ではないのか?
日本人は日本のナショナリズムを否定して、アメリカナショナリズムを肯定している矛盾に気づかないだろうか。間接的にアメリカナショナリズムをプッシュしていることに。
ナショナリズムというと、大衆向けに、視覚的に認識しやすい記号として、日ノ丸・天皇・靖国をイメージする、これらは群衆心理を束ねるための、また国民の目をそらす為の装置として用意されたものです。
アメリカは日本の右と左に限らず、こういったポピュリズムに染まりやすく、深く考えることのない国民、思惑どおりに自由に操れる国民を歓迎し、利用してきた、日本政府も積極的に協力したのである。
ルソーの言葉を借りることになるが、「投票権を持つということは、その人は政治研究の義務を充分に課せられるのである」「義務を充分に課せられる」重い言葉ではないか。
国民ひとりひとりが、常にこの意識を持って、はじめて真の民主主義が成り立つのではないだろうか。いま世間でおこなわれているのは民主主義の理念からほど遠いポピュリズム政治であって、ただ数の収奪戦にすぎない。
いまの時代というものはヒツジの群れ、名づけて羊群主義の時代である。
えーぃくそ!!マッカーサーよ、日本人全員がお前らに服従しようとも、俺だけは服従しないからな。
capelaurig
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「汝、自己の為に何の偶像をも刻むべからず」「上は天にあるもの、下は地にあるもの、地の下の水の中にあるもの、何の形状をも作るべからず。之を拝むべからず。之に使うべからず。われエホバ、汝の神は嫉む神なれば、我をにくむものに向いては、父の罪を児にむくいて3,4代に及ぼし、我を愛し我が戒を守る者には、恵みを施して10代に至らんなり」
一寸考えれば、中々面白い。真の神は宇宙に只一柱より他にないという一面の真理だけは、よく表われて居る。モ-ゼは、独りこの戒めをその同族に示したばかりでなく、世界人類一般に示したものの様である。しかし茲に出た「神諭」は全宇宙主宰の神示としては、偏狭に傾いて居るように見受けられる。
エホバと唱える名称は、いかなる神を指すのか。外国の神のように思って、よそ事に聞き流すもあろうが、根本の神、宇宙の本体という意義である。日本民族が、太古に於いて天御中主神とたたえた神を指すに外ならぬので、極めて大切な国祖である事が判る。ただこの神徳の説き方が、甚だ人為的で不備偏狭を免れぬという欠点があるのである。
我が天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のことを、アブラハムも、モーゼも、其他すべてのイスラエル人も、エホバと崇め唱えたらしいが、天御中主神は全霊界統治の神であると同時に、全現界統治の神である。独りイスラエル民族が専有すべき神でなく、実に又、我日本統治の神であり、各個人の保護の神である。
(1917年 信仰の堕落より)
capelaurig
が
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