第3代安寧天皇は磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)天皇という名前で、その第3皇子は磯城津彦(しきつひこ)命といいます。これはとても不思議な名前です。何故ならば磯城彦(しきひこ)とは、神武天皇が東征で攻めた兄磯城(えしき)弟磯城(おとしき)を合わせた名前だからです。『日本書紀』では兄磯城だけが滅ぼされ、弟磯城は帰順して磯城県主に任命されたことになっていますが『古事記』では兄師木・弟師木ともに討たれています。
『日本書紀』では兄磯城の軍が磐余邑に満ちていたともあり、この「磐余」は神武天皇の名前「磐余彦」とも関係があります。磐余の地の旧名は片居または片立といったとも書かれており、この名前は安寧天皇が都した「片塩」を思わせます。多くの謎がありそうに思われます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
『日本書紀』では兄磯城の軍が磐余邑に満ちていたともあり、この「磐余」は神武天皇の名前「磐余彦」とも関係があります。磐余の地の旧名は片居または片立といったとも書かれており、この名前は安寧天皇が都した「片塩」を思わせます。多くの謎がありそうに思われます。
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コメント一覧 (36)
●有吉佐和子『和宮様御留《かずのみやさまおとめ》』
文芸雑誌の『群像』に一九七七年一月号から七八年三月号にかけて『和宮様御留』という小説が連載されました。そこで取り上げられたのが『和宮替玉説』です。
岩倉具視の意向を受けた京都所司代酒井忠義《さかいただあき》が公武合体のために和宮降嫁を急ぐのですが、第百二十代仁孝天皇の后妃のひとりであり和宮親子内親王の生母 勧行院(通称おすめ)が頑強に拒否します。何も知らされないで、少女フキが替玉、和宮に仕立てられて精神に動揺をきたしていくわけですが、その動揺と変調自体は、逃げるために作られたものかもしれません。そして、岩倉具視が仕立てた、髪の毛が淡く、いわゆる赤毛の、左手首のない和宮に取り替えられます。
有吉は、和宮が、その屋敷跡が現在の目白の学習院となった豪農新倉家の家の蔵で縊死《いし》したとの伝承を紹介し、その伝承が御留の本のストーリーに生かされたことがわかります。和宮はもともと東下せず、「フキ」が、板橋本陣で小説の上で宇多絵とされる、岩倉具視が因果を含めただろう、左手首のない新しい和宮にすり替わったとするのですが。いずれにせよ有吉の本は三人の和宮を想定しています。縊死したとする和宮は、伝承では本物の和宮としながら、「御留」で入れ替わった和宮「フキ」を想定していることに不徹底さが感じられます。また有吉は、増上寺の和宮の髪は赤毛であったが、家茂の内柩に収められていたのは緑の黒髪だったと記しています。
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新興宗教とも呼ばれる民衆宗教が、明治維新以降いくつか生まれました。長い間の幕藩体制が崩壊し、新たな時代の変わり目、激しい変革期、未来を見通せない庶民達がどう対応するか、無意識のうちにも新たな指針を求めていました。そして庶民達の声を己の身体で聞き取る能力を持つ、教祖的な人物を多く輩出しました。シャーマンのような存在、それが天理教の中山ミキであり、大本の出口なおらの女性でした。出口なおは無学文盲ながら、たくさんの子供を育て家族を切り盛りしました。たびたび予言めいた事を口走り、牢屋へ入れられ、ある日、神がかり(憑依現象)があります。
どこからともなく筆を持てという声に驚きながら、出口なおは筆を持ち、筆先と呼ばれる書き付けを始めました。フロイトがいう自動書記現象です。書き付けたものを判読できず、後年出口王仁三郎が明らかにします。日本の近代化への疑問、富国強兵に対する批判、西欧文明に追随する日本に対する強烈なアンチテーゼの内容でした。
capelaurig
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日本の近代化のはらむ大きな矛盾があった。簡単にいえば、日本の近代化は、同時に日本の西洋化であるほかなかった。それに成功すればするほど、「日本」は溶解しかねない。少なくとも、福沢のいう「独立の気風」や「士道の精神」などというものは蒸発しかねない。そこで、近代化や西洋化から取り残されるものの不満は、ことさら「日本」を持ち出す方向へと向かうのである。西郷隆盛はその不満を一身に引き受けたが、それでことは片付いたわけではなかった。
戦後の第二の近代化は、西洋化というよりアメリカ化であった。アメリカ型の文明がグローバリズムという名で世界を覆いつつある。明治の近代化において日本が直面した矛盾が解決されたとは思えない。福沢を後継する「新・文明論之概略」はでてこず、彼の危惧した「独立の気風」の喪失も問題とされない。
capelaurig
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出口王仁三郎聖師は、『霊界物語41巻』の中で有栖川宮熾仁親王と和宮親子内親王に何をどう語らせたのか?皇女和宮は出口王仁三郎聖師の父、有栖川宮熾仁親王の許嫁《いいなづけ》として、公武合体の犠牲になられ、江戸城無血開城にも貢献された方です。和宮が明治二年に箱根塔ノ沢で暗殺され、骨は東京に持ち帰られ、左手首は、八木清之助が持ち帰って亀岡市の郷里に埋めて五輪の塔の形で祀《まつ》られたことを仮説として呈示しました。明治十年に和宮が箱根で死亡したという公式事実から、和宮暗殺は明治十年であろうしていますが、和宮が京に帰ったのは、明治二年二月三日とされていますから、「調査団宛の手紙」を書いた老婆の指摘する明治初年の年代、和宮の暗殺はこの二月三日の前のことではないでしょうか。
「調査団宛の手紙」の主旨は、明治初年に「岩倉卿と祖母が主になって、小数の供まわりを従へ、御手回り品を取まとめ、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊にあい(多分、浪人共)、宮を木陰か洞穴の様な所に(御駕籠《かご》)おかくまいいたし、祖母も薙刀《なぎなた》を持って戦いはしたものの、道具類は取られ、家来の大方は斬られ、傷つき、やっと追いはらって岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早これまでと、お覚悟あってか、立派に自害してお果てなされた」ということです。それならば、明治二年二月二四日に明治天皇に会ったという和宮親子内親王とは、その面会の事実そのものが虚偽か、あるいは、殺されたであろう和宮の「替玉」であったのではないでしょうか。
capelaurig
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「我々は考えすぎて、感じることがあまりにも少ない。我々が必要としているのは機械よりも人間愛であり、利口さよりも思いやりと優しさである」
強欲に対しては少欲知足ですが、マハトマ・ガンジーは「地球は各人の生存のために必要とするものは満たし得るが、各人の貪欲は満たし得ない」と述べています。これはグローバリゼーションが逢着する諸問題の背景を説明するものです。 「少欲知足」は、欲望を減らすことにより幸福を極大化することを可能にするもので、現在見られる消費の極大化の追求と 対照的と言えます。
これは幸福=富÷欲望であるとする釈迦牟尼の教えと軌を一にするものです。この数式では欲望は分母であり、富は分子です。
権力に対しては哲学ですが世界が直面する危機を前にして、古代ギリシャのプラトンが「王様は哲学者になるべきである。さもなければ人類の不幸は無くならない」と述べています。今日、哲学の欠如により世界は理想を失い、民主主義の究極の目標たるべき「最大多数の最大幸福」は忘れられている。
capelaurig
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和宮が十一月一日に明治天皇と面会したという記録がありますが、天皇は御簾《みす》の外から顔を出して和宮と会見したのでしょうか。もしそうなら、和宮は明治天皇が偽物であることを見抜いていたはず。
ただ、兄孝明天皇が暗殺され、夫、徳川家茂も暗殺説が飛び交い、孝明天皇の子とされる睦仁親王も暗殺されたと悟ったならば、自身の命を考えるならば、和宮は黙るしかなかったはず。そして、辻ミチ子氏の『和宮』(ミネルヴァ書房)によれば、上京に当たり和宮には千金(千両、または多額の金額)が渡され、侍女たちにもお手当が出ます。勝海舟は日記に「万事朝廷にて御賄《まかな》いなし下され、かつ天璋院様へ三千両お送り下され、至厚のご趣意、岩倉殿深情に出ず」と記しています。
ここに登場するのは、「調査団宛の手紙」の老婆の指摘と同じ、岩倉具視です。この千両とか三千両とは、岩倉具視や伊藤博文が実行した孝明天皇暗殺と大室寅之佑すりかえに伴う「口止め料」ではないでしょうか。1月11日に天璋院篤姫を訪問し暇(いとま)乞いをし18日に東京を発った。
capelaurig
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君が代:歌詞は平安初期(1000年頃)の和漢朗詠集、古今和歌集第7巻に<我が君はちよにやちよにさざれ石の。。>、鎌倉時代(1200年頃)白拍子の謡曲や地歌などで拡がる。明治3年(1870年)薩摩藩が英人フェントンに作曲させた。昭和52年(1977年)学習指導要領にて国歌とされた。歌詞は封建的君主制の名残りである。節回しから日本人の音痴の根源でもある。
capelaurig
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しかし、和宮の遺骸に関しては、この消えた写真を上回る奇怪な謎があった。骨絡の保存状態は良好であるのに、なぜか、左手首の関節から下が発見できなかったのである。これはただ単純に、見つからなかったではすまされない問題である。行き倒れならともかく、庶民であっても、親の死骸は大切に葬るものである。ましてや皇女であり将軍の正室であった女性の遺骸が、粗末に扱われたはずはない。和宮の数少ない写真をあさってみたが、左手はどれも袖下《そでした》に隠されている。あるいは先天的になかったのでは……と疑いかけたところ、洋装の和宮の写真が見つかり、それにはちゃんと左手指が写っていた。ではなぜ遺骸には左手首がないのか?
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肉食のみを滋養物として、神国固有の穀菜を度外する人間の性情は、日に月に惨酷性を帯び来り、終には生物一般に対する愛情を失ひ、利己主義となり、かつ獣欲益々旺盛となり、不倫不道徳の人非人となつてしまう。虎や狼や、獅子なぞの獰猛なるは常に動物を常食とするからである。牛馬や象の如くに、体躯は巨大なりと雖も、極めて温順なるは、生物を食はず、草食または穀食の影響である。故に肉食する人間の心情は、無慈悲にして、世人は死なうが、倒れやうが、凍て居らうが、そんな事には毫末も介意せない。只々自分のみの都合をはかり、食色の欲の外天理も、人道も、忠孝の大義も弁知せない様に成つて了ふのである。斯う云ふ人間が、日に月に殖ゑれば殖ゑる程、世界は一方に、不平不満を抱くものが出来て、終には種々の喧しき問題が一度に湧いて来るのである。為政者たるものは、宜しく下情に通ずるを以て、急務とし、百般の施設は、之を骨子として具体化して進まねばならぬのである。素盞嗚尊は止むを得ずして、天下の為に大気津姫命を殺し玉ひ、食制の改良を以て第一義と為し玉うたのである。西郷南洲翁は、政とは、情の一字に帰すると断じ又孟子は、人に忍びざる心あれば茲に人の忍びざる政ありと云つて居る。然るに為政者は、果してこの心を以て、之に立脚して社会改良を企画しつつあるであらう乎。
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仁孝天皇(1800~1846)の猶子であり、皇統を継続させる世襲親王家の制度として孝明天皇(1831~1867)より4歳年下で、大正天皇が生まれる(1879)まで皇位継承権第一位にあった。
1867年孝明天皇、睦仁親王(明治天皇)が相次いで、岩倉具視・伊藤博文に暗殺され、大室寅之祐(1850~1912)が明治天皇にすり替わる。
丹波は京の女官供給源であった。熾仁親王の母・佐伯祐子は京都亀岡佐伯の出身である。亀岡穴太出身の出口王仁三郎(1870~1948)母上田よねは和宮にも会っていたという。よねの叔父が営む伏見の船宿で二人は結ばれる。男の子なら殺されると出生は極秘にされ、よねはご落胤を隠す為、養子を迎える。第2次大本事件2審公判でご落胤問題が遡上に上がる。王仁三郎が熾仁親王の遺児だというのは不敬罪になると、国家権力はすごんだが、あまり深く追求できなかった。元はと言えば、西園寺公望・昭和天皇(公望の養子西園寺八郎が実父)の画策で皇位継承権のあった王仁三郎を追い落とす弾圧だった。
王仁三郎には男の子はいない。事実上皇統は絶えた。天皇制の継続は税金の無駄使いでしかない。
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鎌倉時代・平成などの民衆宗教ではなく、近代民衆宗教とは、富士講を除いて、黑住・天理・金光・大本という19世紀に発生した宗教である。イデオロギー的な含意を有し、支配体制や日本近代社会のあり方に異議申し立てを行う可能性があった。
近代天皇制国家と民衆が原理的に対立するものと設定されている。大本が2度の大弾圧を受けたという事実は、教団が近代天皇制国家における民衆宗教であり続けた証拠である。治安維持法が民衆を抑圧する悪法である以上、違反するのが民衆宗教のあるべき姿である。大本の信仰は人々の怒りを神秘の夢に発散させてしまうと批判されるが、大本事件という経験によって、現実との接点が生まれ、新たな運動の展開が可能になった。戦前の活動は夢なのに、どうして戦後の平和友好・民主主義が現実として認められるのか?最近の忖度政治や無意味なコロナ対策やオリンピック招致が民衆を再び揺り動かしている。
capelaurig
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善悪美醜は人によって価値観が異なり、それをはかる尺度のないものだが、王仁三郎は、「善というのは、透明体である霊魂だ」という。「天帝(神)から贈ったところの至粋至純なる清い清い霊魂」なのだ。そして体とは物質そのもので、これを善である霊と対照して悪と呼ぶ。美もまた、神の目からみた美が真の美で、それと対照したものが醜となろう。
「天主一物を創造す。ことごとくカ徳による。故に善悪相混じ美醜互いに交わる」(『霊界物語』六巻二六章「体五霊五」)
王仁三郎は善悪一如、善悪不離を説き、「悪の中にも善があり、善の中にも悪があり、善悪美醜混交しているのが世の中だ」(『道の大原』二章)という。人間は肉体と精霊で成り立つ。言霊学では、霊をヒ、またはチと読む。人は精霊を止める存在だから、霊(ヒ)止(ト)なのだ。体はカラ、カラタマだ。もともと肉体は精霊を入れるために作られた中身なしの容器である。だから殻、空と同義で、カラタマは「霊魂が空(から)」とか、「霊魂の殻」などの意味がある。また現身(うつしみ・うつせみ)のことを「空蝉」と形容したりするのも、生きがいを失った肉体は、いわば蝉のカラのようなものだからであろう。善と悪と和合してこそ力が生まれる。世の中のいっさいがっさいが霊と体で成り立つ以上、すべて善悪混交が真相だ。
「世の中には神はなにゆえ善ばかりをこしらえぬかと理屈をいうものがあるが、神は大工や左官でないから、指金は持ち給わぬ。善になるも悪になるも、みなそのものの力徳である。それで誠の道におもむいて神力をうけねばならぬ」(『道のしおり』「一巻」)
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なおの神がかりで、大本が出現した意義について、現実社会への憤りと救済であり、国祖隠退再現説(艮の金神が押し込められ、世が乱れ世界の立替え立直しの為、再び現れた)を客観的(歴史学)VS 主観的(教義・信仰解釈)に割り振る普遍性に導くには、神の経綸と資本主義の確立という民衆宗教のナラティブになる。世俗主義が広く浸透した現代社会では神話的歴史観を額面通りに受け取らない。神秘的な解釈の内実を言語化し、多層的な現実のありようを構想する。大本は開教以来、現代社会に警告を発し、神示に基づく平和主義・精神を貫く。日露戦争中、出口なおは出修として舞鶴湾に浮かぶ沓島にこもって修行する。戦勝祈願・平和祈願の諸説が存在する。
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北光(きたてる)の神は竹野姫、竜雲、テームス、八木清之助等を引きつれ、気を利かして一間に引上げてしまった。後に熾仁親王、和宮は暫し沈黙の幕をつづけていた。和宮は心臓の鼓動を金剛力を出して鎮静しながら、顔にパツと紅葉《もみぢ》を散らし、覚束《おぼつか》な口調にて、『熾仁親王様、お久しうございました。御壮健なお顔を拝し嬉しう存じます』と纔...に言つたきり、恥しそうに俯《うつ》むいて顔をかくす。熾仁親王は目をしばたたきながら、熾仁『貴女も随分辛い思いをしたでしょうなア。私も江戸の国の空を眺めて、渡り行く雁に思いを送ったことは幾度か知れませぬ。私の真心は貴女の精霊に通じたでしょうなア』
和宮『ハイ、一夜さも王様の御夢を見ないことはありませぬ。今日ここで貴方にお目にかかるのは夢の様にございます。夢を両人が見ているのではありますまいか。夢なら夢で、どこまでも醒(さ)めない様にあって欲しいものですワ』熾仁『決して夢ではありますまい、現実でしょう、しかしながら二人の間は夢より果敢(はか)ないものでございました。今北光の神様からいろいろと御理解を承はり、今後どうしたらよからうかと思案にくれている所です』和宮『たとえ天律を破ってもかまわぬじゃありませぬか。一分間でも自分の本能を満足させることができれば、死んでも朽ちても構いませぬ。二人が根の国底の国へおとされようとも、貴方と手を引き合うてゆくのならば、構わぬじゃありませぬか』
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昭和史を彩るファシズムの実態と矛盾が露呈され、権力の志向する方向とは相容れない、非常時の国家治安上の大本弾圧事件では、民衆的な多彩な活動を展開した大本の神観・世界観を調査し、故意な曲解に対し、信者による信仰の光こそ輝ける伝統が宿る。天皇制神話に対する大本の異質性もしくは昭和神聖会の軍事的・経済的威力を叩き潰したのか。皇道の美名にかくれて不敬をやるとは、軍部とのつながりが問題なのか、教義の問題性なのか、弾圧の標的は何なのか、民衆宗教概念の暴力性とは何なのか。支配されている階層、民衆の自主的な思想・創造に権力に対する批判の芽生え、平和を守るというものが、正しい歴史学になる。昭和3年3月3日に国体変革を目的とする結社を組織したという無理が、結局無罪になる。反権力の物語が、国家権力の弾圧に決定的に依存している。昭和神聖会が右翼団体と連携しながら海軍軍縮条約廃止、天皇機関説排撃で、政府の運動を先取りしていた。
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・物価高民をじりじり締め上げる - 芒野
「物価」の秀句
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・月末に買っておこうか考える - 芒野
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「見る」の特選
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「見る」の秀句 ・今の猿見ろ言え聞けと下山する - 金狼と月
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