安倍晋三銃撃事件は大きな衝撃です。「暗殺事件」でも良いのですが、やはり現職の内閣総理大臣ではなかったので銃撃事件にしておきます。
この事件を契機にして、統一教会の深い闇が明らかになってきました。自民党、特に岸信介に始まる岸・安倍一族との関係は深いものがあります。
自民党と創価学会との関係は公明党を通じて明らかになっていましたが、統一教会との関係は見えにくいものがありました。ケネディ暗殺事件の真相は2039年まで明らかにされないとのことですが、日本は公文書の改竄も破棄も普通に行われ、そもそも公文書を作らないこともありますから関係無いでしょう。事件後に新しい動きも起きており、今後も注意して見て行こうと思います。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
この事件を契機にして、統一教会の深い闇が明らかになってきました。自民党、特に岸信介に始まる岸・安倍一族との関係は深いものがあります。
自民党と創価学会との関係は公明党を通じて明らかになっていましたが、統一教会との関係は見えにくいものがありました。ケネディ暗殺事件の真相は2039年まで明らかにされないとのことですが、日本は公文書の改竄も破棄も普通に行われ、そもそも公文書を作らないこともありますから関係無いでしょう。事件後に新しい動きも起きており、今後も注意して見て行こうと思います。
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「同じ天人でも、東の団体に住む者と西の団体に住む者とは大変な幸不幸あるじゃありませぬか、西の方の団体が甲団体を羨望して移住して行く様な事はありますかな。」
「決して左様な案じはありませぬ。すべて神格よりする愛其ものの情動如何に依って、各自の運命が定まるのですから、西の団体が東の団体の光明を羨望して行った所で、自分の徳が足らないので、苦しくて居られないのです、それ故個々団体の天人は決して他へ自由に移るといふような事はありませぬ、すべて高天原には順序が第一重んぜられて居ります。此順序を誤る者は、到底天国の生活は望まれないのです。大神様の神格は順序が第一に位しているのですから、地上の世界の如く、決して秩序紊乱などの虞は夢にもありませぬ。これ故に天国は永遠に平和が保たれてゆくのです。」(第47巻 天国巡覧 天界行)
capelaurig
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「キリストは、『最後の審判をなすために再臨する』といったが、彼の最後の審判というのは、火の洗礼を施すということだ。彼は火の洗礼を施そうとして、その偉業が中途で挫折したため、再び来たって火の洗礼を完成させようと欲した」といい、火の洗礼とは人聞を霊的に救済することだとしている(『水鏡』「霊界物語は最後の審判書なり」)。
そして「最後の審判は、閻魔大王が罪人を審くと同様なる形式において行わるると、考えている人が多いようだが、それは違う。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものとの標準を示されることである。この標準を示されて後、各自はその自由意志によって、自ら選んで天国に入り、あるいは自ら進んで地獄におつる、そは各自の意志想念のいかんによるのである。標準とは何か、霊界物語によって示されつつある神示そのものである。ゆえに最後の審判は、大正十年十月(霊界物語の口述を指す)より、すでに聞かれているのである」としている(『水鏡』「霊界物語は最後の審判書なり」)。
王仁三郎によれば、予言とは、「予め言う」予言ばかりではなく、「神が言を預かる」預言の意を含む。神は出口直の口を通して警告したが、あとは時節がくるまで、神自身の吐いた言葉を神が預かる。もし人類がどうしても改心できねば、万策つきて返きねばならぬ。だがそれに気づいて目ざめれば、人類の未来は希望に輝く。
capelaurig
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「成程、実に結構な御経綸がしてあるものですなア。」
「現界の如く、労使の衝突だとか、労働問題だとか、地主対小作争議だとか、思想・政治・経済問題などは夢にも起りませぬ、実に平和な幸福な生涯ですよ。現界人が一度天国の情況を見たならば、再び現界へ帰るのは厭になって了ひますよ。」
「治国別さま、あの南の方に小さき丘陵が見えませう、あれは智慧と証覚とに充ちたる天人共の住居する団体です。そうして此真北に当る所に又一つの丘陵があって一部落が見えましょう、あれは愛善と信真の徳よりする智慧証覚に充ちたる天人共の住居する一個の団体でありまして、南の団体よりは少しく劣っている天人が群居して居ります。少し此から見ても朧気に見えるでしょう。」
「愛の善といふものは凡て吸引力の強いもので、又無限の生命を保有しているものです。天人であろうと、現界人や地獄界の人間であろうと、それ相応の愛によって生命が保たれている。其愛なるものは凡て厳と瑞の御霊の御神格より内分的に流れて来る。実に無始無終の生命ですよ。」(第47巻 天国巡覧 天界行)
capelaurig
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立替えを 他人のことと勿(な)思ひそ 立替するは己が身魂ぞ
ゆめの世に 夢を見るちょう人の世も 神の御声に醒めざるはなし
「三千世界一どに開く梅の花」と、艮の金神は初発に宣言した。一八九二年旧正月のことである。これについて、王仁三郎は解釈する。
「今日の物質文明と大本の精神文明との準備がととのったということであり、三千世界一どに聞くというのは、縦からも横からも全部天にあるものいっさいを指して、それがいっさい、地にあるもの、一度に開くということだ。今までにためてあったすべての経綸が、まず形の上から現われてくる」
確かに艮の金神が宣言した当時からみれば、加速度的に発展した物質文明、地球上の華やかな変化は目をみはるに十分だ。だが精神文明の方はどうか。むしろ後退し、蹴行的状態である。王仁三郎は、梅の花は神の教えだと示す。神の教えが一気に人類の目をきます時がくるということであろう。その時期はいつか、どんな方法でか、私たちには分らぬ。
碁の名人が素人相手に対局したとする。名人の打った捨て石が、進むにつれてどうなって、どう利くかということは、予測もつかなぃ。「名人ともあろうものが、ばかな石を打つものだ」ぐらいに思うこともあろう。だが振り返ってみると、その一石が決め手となることさえあるのだ。
神の経論は近視眼的な我々には理解できなくてあたり前、完全な理想世界を築くには、政治も、経済も、宗教も、芸術も、形あるものないものすべてが必要であり、わけでも科学は大きな役割をになうであろう。
capelaurig
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治国「実に天国と云う所は、吾々の想像意外に秩序のたった立派な国土ですな。到底吾々如き罪悪に充ちた人間は将来此国土に上る見込はない様ですな。」
言依別「決して左様な道理はありませぬ、御安心なさいませ。此処は最下の天国で、まだ此上に中間天国もあり。最高天国もあるのです。猶其他に霊国と云ふのがあって、それ相応の天人が生活を続けて居ます。」
「其最高天国へ上り得る天人は、非常な善徳を積み、智慧証覚の勝れたものでなければ参る事は出来ますまいな。」
「厳の御霊の聖言にもある通り、生れ赤子の純粋無垢の心に帰りさへすれば、直ちに第一天国と相応し、神格の内流によって案外容易に上り得るものです。」
「成程、然し天国にも矢張り自然界の如き太陽がおでましになるのでせうな。」
「アレ、あの通り東の天に輝いて居られます。貴方には拝めませんかな。」
「ハイ、遺憾乍ら未だ高天原の太陽を拝する丈けの視力が備はって居ないと見えます。」
「さうでせう。貴方には未だ現実界に対するお役目が残って居ますから、現界から見る太陽の様に拝む事は出来ますまい。天国の太陽とは厳の御霊の御神格が顕現して、ここに太陽と現れ給ふのです。現界の太陽とは非常に趣が違って居ります。霊国にては瑞の御霊の大神月と現れ給ひ、天国にては又太陽と給ふのであります。霊国の月は現界から見る太陽の光の如く輝き給ひ、又天国の太陽は現界で見る太陽の光に七倍した位な輝き方であります。日は真愛を現し月は真信を現し、星は善と真との知識を現し給ふのであります。」(第47巻 天国巡覧 下層天国)
capelaurig
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この頃に比べると、宇宙中継のおかげで、世界の人が一度に梅の花の聞くのを見ることも夢ではなくなった。今後の社会は物質から情報へ、情報から霊的なものへと質的変化をめざし、両方併存しつつ、霊的側面が優勢になることが望ましい。
いま目まぐるしく進むこの情報社会でこそ、梅の花、教えがパッと一度に咲きにおう時期がくる。その霊的変革によってのみ、三千世界は破滅から救われる。ある時期は速度を早めながら、破滅か光明かの選択を人類にきびしく迫りつつ、最後の百匹目へと確実に進みつつある。
みな人の 眠りにつける真夜中に 醒めよと来なく山ほととぎす
梅の花 一度に開く時来ぬと 叫ぴ給いし御祖畏(みおやかしこ)し
capelaurig
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『文明の生態史観』は、1957年(昭和32年)に『中央公論』に発表された梅棹忠夫の論考。西ヨーロッパと日本は第一地域に属し、その間をなす、広大な大陸部分を第二地域とした。第二地域においては早い時間で文明やら巨大な帝国が成立するが、遊牧民や制度などに問題を抱え、没落していくという。逆にその周縁に位置する第一地域においては気候が温暖で、外部からの攻撃を受けにくいなど、環境が安定している為、第二地域よりは発展が遅いものの第二地域から文化を輸入することによって発展し、安定的で高度な社会を形成できるとした。
中国、ロシア、インドは第二地域であり、専制政治しかできない運命なのか。
一方、地球温暖化の速度は日本でも40度近い真夏の気温となり、あと20年もしたら住むのが困難になるであろう。日本の少子化は300年後には、日本人が居なくなる予測となる。アイヌと同じ運命になる。
capelaurig
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人はこの世に生まれるなり、矢が弓を離れるように墓場に向って一直線につき進む、それが人生というもの。死に対する限り、我々もまた死刑囚とさして変わらぬ。生まれながらにして大自然から死刑を宣告されているのと同然で、ただ死ぬ時期と方法が彼らよりもっと漠然としているに過ぎない。
人により死刑台の高さはまちまちでも一年の時の経過はそれを一段上がるのと同じこと。なのに正月がくれば「おめでとう」、誕生日がくれば「おめでとう」という。何がめでたかろう。一休禅師の歌に「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」とある通りだ。
死は金持、貧乏人を間わず、例外なく訪れる。まだまだ若いから関係ないと安心することもできない。飛行機が落ちれば、老いも若きも一蓮托生だ。病気などのように前ぶれのある時もあるが、足元から鳥が立つように突然に襲ってくることもある。人間は常に死に直面して生きている。エピクロスはいう。
「生涯を通じ、食うための手段をととのえることにあくせくしている人びとがある。われわれすべてにそそがれた誕生の薬は、また死への薬でもあったことを理解しないからだ」
「死以外のことに対してなら、身の安全を得ることもできよう。が死に関する限りわれわれ人聞のすべてはいわば無防御の町に住んでいるのだ」
capelaurig
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capelaurig
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特選
・国葬は国の終りの始まりか - 芒野
秀句
・国葬で死後も憲法無視のアベ - ふ64
・神妙な面(ツラ)して疑惑葬るな - ふ64
・反対を無視して国葬誰のため - 乾草
・安倍マスク兵器爆買い国葬に - 原子力ガリレオ
・国あげてとむらうほどの功見えず - 乾草
「終り」
特選
・ロボットに終り見とらる近未来 - 原子力ガリレオ
秀句
・これからも森加計桜問い続く - 乾草
・終りなき反原発の坐りこみ - 乾草
・終わらない原発災害見よ岸田 - ふ64
・アベ死後も終る事ない人の欲 - 芒野
・いい加減終りにしよう再稼働 - 芒野
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だ。もう死にたいとはいわなくなった。
いざとなれば、人間の生への執着はそのぐらい強い。ふだんはささほど思わぬのに、ちょっとどこかが痛み出すと、「あ、ひょっとすると癌? このまま死ぬかも・・・」などと怯(おび)える。ある高僧が癌の宣告を聞いて取り乱したという話も有名だ。
意識するしないにかかわらず、誰もが心の底に死への怯えを抱いている。それでいながら、さほど不安もなく生きていけるのは、主に二つの理由によろう。
一つは、「私に限って死はまだまだ先だ」という、誰もが持っている迷信だ。「目も歯も弱ったし、去年のギックリ腰以来どうも無理がきかん。だがまだまだしたいことが山ほどある。わしに限って、なかなかお迎えはこんぞ。かえってあんな元気そうに見える奴がポックリいくんじゃないか」などと、自分のことにはいやに楽観的だ。それにもう一つ、人間は明日への期待を作る名人だということ。
誰もが、大なり小なり、明日への期待を作って生きている。「今は借金で苦しいが、明日になったら二千万円の宝籤(たからくじ)が当たるかも」とか、
「ひょっとすると、あの娘はおれに惚(ほ)れとるぞ。よし、明日はデートに誘ってみてやれ」とか。しかし待ちに待ったデートの時がきても、その楽しい現在は絶対につかめない。つかんだと思うと、過去という名でするすると逃げ出し、悲しい別れの時が迫ってくる。会うは別れの初めなのだ。
capelaurig
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治国別「いや、そうではない。天国は愛善の国だ。神は愛と信とを以て御神格と遊ばすのだ。吾々も神様の愛と信とを受けなくては生命を保つ事は出来ない。神より頂いた此愛と信とを遍く地上に分配せねばなるまい。地獄におつるのを恐れて現在目の前に苦しんでいる此憐れな人々を救はないと云ふのは、所謂自愛の心だ。自愛の心には天国はない。仮令此場所が地獄のドン底であろうとも、自愛を捨て善と愛との光明にひたる事を得るならば、地獄は忽ち化して天国となるであろう。」
「然し乍ら斯様な天国へ来て居ながら、あの様な穢い人間に触れて、折角磨きかけた精霊を穢す様な事があっては、多勢の人間を娑婆へ帰って救ふ事が出来ますまい。只の一人を助けて精霊を穢すよりも、此場は見逃して多勢の為に愛と信との光を輝かす方が、何程神界の為になるか知れませぬぞ。此処は一つ考え物ですな。」
「いや決してさうではない。目の前に提供された、いはば吾々の試験物だ。此憐れな人間を見逃して行過ぐる位ならば、到底吾々の愛は神の神格より来る真の愛ではない。矢張り自然界と同様に自愛だ、地獄の愛だ。斯様な偽善的愛は吾々の採るべき道ではない。」
「ここは最下層の天国、これより中間の天国団体へ案内致しませう。中間天国の天人の証覚や智慧及び愛と信は、下層の天国に住む天人に比ぶれば、万倍の光明が備はって居ります。此天国より一万倍の愛の善と信の真、
智慧証覚を備へなくては、仮令天国へ無理に上るとも、眼くらみ、頭痛甚だしく、力衰へ、殆ど自分の生死の程も分らない様になるものですよ。竜公は被面布を頂かれて、第二天国の探検もできませう。治国別様も被面布を上げませう。」(第47巻 天国巡覧 天開の花)
capelaurig
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だが王仁三郎は、「生、病、老、死、これを四苦といって、人生で一番苦しい。生まれる時の苦痛が一番ひどく、人はその苦しみによって自分の前生をすべて忘れてしまい、何もわからぬようになる。
次が病のくるしみ。これはたいていの人が大か小か味あわないものは少ない。次が年をとってゆく苦しみ、だんだん苦痛が軽く、死が一番、苦痛が小さい」(『水鏡』「四苦」)と語る。
一般に苦痛の度を反対に考えているが、もし王仁三郎の言が事実ならば、一番の苦痛は誰しも通り過ぎてきたことになる。だからといってそれはほんの気休めにすぎない。ふと我に帰った場合、生まれてから心臓が停止するまで、それだけが人生かと思えば、こんなむなしいものはない。しかし霊魂の命は尽きることなく、生まれてくる前に前世という生があり、死んでからも死後の世界という永遠の生があると知れば、人生の考え方がまるで違ってくるはずである。
死後の世界を信じず平気で生きている人のなんと多いことよ。宗教家にも霊界の存在を信じていない人は少なくない。それでいながら、葬式を待って人の死で食っている。
肉体が灰になった後にも魂は残るなど、それが科学的に立証されたわけでもないのに、死後の世界についてあれこれ頭を悩ますのはむだじゃないかという考えの人もあるだろう。しかし神や死後の世界があるかないかわからないとして、もし死んで霊界に行ってから「しまった」と思っても、それこそ「後悔先に立たず」だ。「濡れてから衣を乾すより濡れぬ聞に傘さしかざし広き道ゆけ」と王仁三郎は教える。
capelaurig
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治国別「嗚呼どうなり行くも神の御心、吾々人間の如何ともすべき限りでない。神様、御心の儘に遊ばして下さい。罪悪を重ねたる治国別、過分も此清き尊き天国に上り来り、相当の御処分を願います。」もはや絶対絶命となって来た。此時俄に天の戸開けて天上より金色の衣を纏ひたる、目も眩きばかりの神人、二人の脇立を従へ、雲に乗って二人に前に悠々と下らせ給ひ、懐より霊丹(れいたん)と云ふ天国の薬を取り出し、二人の口に含ませたまへば、不思議なるかな二人は正気に返り、痩衰へた体は元の如く肥太り、顔色は鮮花色と変じ、爽快の気分に充されて来た。
「貴神は木花姫命様でございましたか、誠に御仁慈の段感謝の至りに堪へませぬ。」
「神様、能くまあお助け下さいました。竜公は既に天国に於て野垂れ死をする所でございますなあ。」
「総て天国には善と真とに相応する順序が儼然として立って居りますから、此順序に逆らへば大変に苦しいものですよ。身霊相応の生涯をさへ送れば、世の中は実に安楽なものです。水に棲む魚は、陸へ上れば直に生命がなくなるようなものでござります。」(第47巻 天国巡覧 霊丹)
capelaurig
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パスカルは「神は存在するという表の側をとって、その得失を計ってみよう。二つの場合を見積ってみよう。もし君が勝てば、君はすべてを得る。もし君が負けても、君は何も失いはしない。だからためらわずに、神は存在するという側に賭けたまえ」(『パンセ』)と述べる。賭けるのはいいが、正しい霊界の知識に欠けると邪悪な宗教もはびこり、それに迷わされて大火傷する。だからこそ、信じるにしても、神や霊界についての正しい判断力を身につけておく必要がある。
世の中に 死後の世界を知らぬほど 寂しきものはあらじと思う
人生に おける一大問題は 死後の世界の有無にかかわる
何時までも 魂の命はあるものを 消ゆるといいし醜(しこ)のものしり
あめ地に 神なきものとほこりつつ まさかのときに手を合す曲(まが)
生前に 死後の備えのなき人は 死期せまるとき無限の悔あり
人間は この世を去ればそれぎりと 思へる人の驚く霊界
霊界に 至りて人は驚かん 依然と命の続けるを見て
おおかたの 人のあわれは死してのち 天国あるを悟らぬことなり
はかなさは 人の命としりながら いのちの神を世人知らずも
人の世の 悲哀の際(きわ)み待ちくらす 醜僧侶のこころきたなき
み仏の 法を伝うる道忘れ さかしまごとを待つ坊主かな
人の世は 死ぬにましたる憂いなしと 葬式のみ待つ坊主の汚き
苦しみの 中にも神の恵みあり 悩みなき身を幸とな思いそ
capelaurig
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「ハイ、吾々が命の親の木花姫様、この御恩は決して忘れはいたしません。」
「妾は貴方の命の親ではありませぬ。貴方の命の親は月の大神様ですよ。唯お取次をさして頂いたのみですよ。宇宙一切は月の大神様の御神格に包まれて居るのでございます。決して礼を云うて貰っては迷惑に存じます。何卒神様に直接にお礼を仰有って下さい。」
竜公「もし先生、霊界の如意宝珠と云ふのは善言美詞の言霊ですよ。中間天国へ上る途中に於て天津祝詞や神言の奏上を忘れたので、姫命様がお気をつけて下さったのですよ。」
「成程、ヤ、ウッカリして居った。木花姫様、有難うございます。ほんに竜公さま、お前は私の先生だ、ヤア実に感心。」
「先生、そんな事云って貰ふと大に迷惑を致します。決して竜公の智慧で言ったのではありませぬ。御神格の内流によって、斯様に思ひ浮べて頂かせられたのです。」
「現界に於きましては、竜公さまは治国別さまのお弟子でありませう。併しこの天国に於ては愛善と信真より来る智慧証覚の勝れたものが、最も高き位置につくのでございます。神を信ずる事が厚ければ厚い程、神格の内流が厚いのでございますから。」
「天国に参りましても、やはり現界の虚偽的階級を固持して居ったのが、重々の誤りでございます。月の大神様、日の大神様、木花姫様の肉の御宮を通し、又竜公さまの肉の宮を通して、愚鈍なる治国別に尊き智慧を与へて下さった事を感謝致します。」(第47巻 天国巡覧 霊丹)
capelaurig
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奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。(益田勝実『天皇史の一面』より)明治天皇も伊藤博文も、大正天皇に子どもができないことを知っていたので、西園寺八郎を貞明皇后に近づけたとされる。大正天皇の子4人(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)はいずれも父親は別とされ(異父兄弟)、みんな顔が似ていない。(浩宮と秋篠宮もまったく似ていない異母兄弟)鬼塚氏は、秩父宮が2・26事件の策を練り、終戦時の8・15宮城事件は三笠宮が策を練ったのだと断言している。どちらのクーデターもヤラセだった。貞明皇后(節子*さだこ)はしきりに世継ぎに介入したとされる。秩父宮を溺愛し、裕仁より秩父宮を天皇にしようと暗躍した。貞明皇后は長州が嫌いだったので、薩摩系の良子を昭和天皇の嫁にしようとして「宮中某重大事件」を起こしている。
貞明皇后は五摂家のひとつ九条家から嫁したとされるが、武蔵野のある大農家の娘だったという説と、彼女の本名は朱貞明だという説がある。中国か朝鮮であろう。朱貞明は、明治政府が徳川幕府から接収した皇居(千代田城)を、高級遊郭にしたのだが、そこに召し出された女性だという。千代田城は「千代田遊郭」と呼ばれ、伊藤博文や大室寅之祐らが、維新で職を失った旗本の娘から美女を選んで囲ったもので、天皇と重臣の遊び場だった。朱貞明が長州の侍に騙されたかして千代田遊郭に入れられ、後に大正天皇の嫁にさせられたとするなら、長州嫌いになったわけもわかる。
capelaurig
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日光東照宮、天満宮、靖国神社などのように死んだ人間を祀ることもあれば、生きながら現人神に仕立て上げたりもする。そのいい例が天皇を神と祀り上げて、「大君の辺にこそ死ねめ、かえりみはせじ」と死を賛美し、日本を戦争にかり立てたあの戦前の天皇制である。今日、新興宗教は、教主を生き神に仕立てて大もうけ。どの神と出会い、どの神とつき合うかで、人生の明暗を分けるといっていい。もし本書を読んで迷信から目覚め、真の神の存在に気づいていただける人が一人でもいたらありがたい。
人間が全幅的に身もゆだねるに足る神を、かりに真の神と名づけよう。では真の神とはいったいどういう存在なのか。王仁三郎は「天地万有の創造主」という。この宇宙に無数に散らばる星たちをはじめありとあらゆるもの、火も、水も、土も、空気も、光の粒子や遺伝子のすべてを生み、はぐくみ、命あるもの、ないもの、形あるものばかりか自に見えぬ霊界までをも、いっさいがっさい創り上げつつ調和させ、寸分の狂いなく運行させ得る力ある主体、それが造物主だ。
capelaurig
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鬼塚氏は、田布施出身の大室寅之祐の家が漁業を営んでいないことを指摘している。ということは大室家が平家ではないことを意味している。平家系の庶民の職業は、漁民か百姓と決まっていたからだ。鬼塚氏は大室寅之祐が北朝鮮系の被差別部落民ではないかと言っている。「週刊朝日」06年10月6日号に掲載された「家政婦は見た~安倍晋三研究」で、安倍家の家政婦の証言として、安倍晋三の父・晋太郎は、日頃から「自分は朝鮮だ」が口癖で、亡くなったときの遺骨を見ても韓国系の体型だったと言っている。
capelaurig
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天帝は 霊力体の三元を もちて一切万有をつくれり
主の神は あまつ月日を生みまして 森羅万象をそだてたまえる
父母の ほかには親はなきものと 誠の親神わするる世の中
無限絶対無始無終の宇宙の大元霊
王仁三郎はさらに加えて、真の神とは「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」という。太初において無限小であり、その広がりにおいて無限大となり、その権威は絶対、始まりなく終りなき宇宙の総根源こそが、大元霊たる真の神である。ではその真の神はどこにいますのか。それが分らねば、どちらに向って祈ってよいか分らぬではないか。
真の神の住居は宇宙の外か、内か。宇宙が無限大なれば無限の外に存在するはずはない。当然、宇宙の中であろう。では太陽か、月か、星か、地球か。地球とすればどこの大陸に、どこの国におわす? :神社仏閣に鎮坐(ちんざ)ましますのか、家々の神棚か仏壇にか?
しかしもし真の神が宇宙のどこかの一点に存在するとすれば、王仁三郎のいう「絶対」の定義からははずれる。たとえば伊勢神宮としよう。宇宙の中の、地球の、日本の、三重県伊勢市の、伊勢神宮の内宮の中なれば、宇宙と相対的な関係となる。真の神だけは他に比肩すべきもののない唯一、絶対でなければならないのだ。
capelaurig
がしました
こうして見てくると、どうして明治権力が朝鮮半島に侵出したか、しかも朝鮮半島をいわゆる植民地化せずに“内地化”して、インフラ整備を徹底的に施し、 “内鮮一致”を押し進めたかがわかる。つまり日本が稼いだ富を祖国・朝鮮半島にせっせと注入したのだ。また日本国内に在日朝鮮人を大量に残し、厚遇してきたかもわかる。権力者どもにとっては同族だからだ。わざと(ユダヤの指示で)日本国内に火種を残したとも言えるだろう。北による拉致だってわかったものではない。総連や北の工作員だけでなく、こうした闇のルートが拉致に介在した可能性もあるし、現在も小泉や安倍という朝鮮系の人間が首相をやっているのだから、闇は深まるばかりだ。
capelaurig
がしました
終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は、鹿児島の朝鮮人部落出身である。本名は朴茂徳である。鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。だから昭和天皇は終戦の大事な時期に、東郷茂徳を起用した。東郷に外交ルートを使った終戦工作、すなわち天皇の身の保全と、天皇家の蓄財の隠蔽を命じたのである。東郷はA級戦犯となり、服役中に病没しているが、おそらく真相を知る人間だから消されたのであろう。
先に紹介したが、終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、大室家とは親族だという。安倍源基は周知のように、戦前、警察権力を一手に握った男で警視総監をやり、特高警察で君臨した。言ってみればゲシュタポかKGBの親分のようなものだ。権力者にとっては重要なポジションである。これもまた朝鮮人系が握っていたのだ。
capelaurig
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もし君の本体が君の腕の中に存在したとしよう。片腕を切断すれば君の本体は半分になるし、両腕を切断すれば君の本体は存在しないことになる。しかし両腕を切断しても君は君であり、ちっとも減りはしない。多量の出血を他人の血液でおぎなった場合でも、君は君で、他人にはならぬ。一つしかない頭や顔や心臓が壊れても、手術で補いのつく間、生きている限りは真の君だ。つまり君の本体は、生きている肉体のすみずみまですべて君と合一状態にある。
今、人間の考え得る極みは宇宙である。唯一絶対であろうとすれば、宇宙のはてまで同体の他はない。すなわち真の神とは、宇宙と合一状態にある大元霊をいう。ではそれは一体何なのか。王仁三郎は答える。
宇宙の本源は活動力
「宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり」(『霊界物語』六七巻六章「浮島の怪猫」)
彼の神観、宇宙観を要約して明快に表現したものだが、換言すれば、神とは宇宙を活かす不断の力、造化の働き、生成化育の妙である。「なんだ、力か」とシラケてはいけない。そういう人たちは、えてしておどろおどろしい宗教屋の餌食になり、骨までしゃぶられる」ことになる。
capelaurig
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自由や民主主義は今やこの国の支配的イデオロギーであり理念である。しかし、これは自由や民主主義の根底である自己意思(自己意思、あるいは自己決定)の実現には疎遠な場所に置かれていて、それは空虚な理念に過ぎないこと知っていたのだ、自由や民主的な所業(行為)を行おうとすれば、「自由や民主主義」の支配とする体制と激突するほかないところがある。山上の行為を僕はテロとして否定するが、同時に意思がこういう形でしか実現できない社会の悲劇性をそこに認める。そして、彼の訴えはテロという行為形態を超えて深く浸透していくと思っている。かつて小林秀雄はロシアの文学と政治を評して近代的な理念を移入しようとしたロシアの知識人の悲劇性の問題を指摘した。近代的な理念の社会的土壌のないとところでそれを存在かしようとした悲劇である。自由や民主主義という近代理念がその基盤(社会性)を欠いたところで存在しようとする悲劇的性格の指摘だった、それはそのまま当時の日本にも言えたことだった。そしてこの問題はプーチンのウクライナ侵攻でも垣間見えていることだ。果たして、戦後の日本はこの悲劇性を克服しえているのか。
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神と人間とは次元の違う存在だから、ふつうでは神との交流は不可能だ。そこで神社や家々の神棚を受像器とし、宇宙の本源なる電源につなぐ。真剣に祈るという行為は、スイッチを入れ神と向き合うこと。ここで初めて神との感合が可能になるが、チャンネルの合わせ方を間違えると、地獄界の想念を受け止めかねない。要注意だ。
祈りは天帝にのみ
人が困難に立ち至った時、神を信じぬ人でも目に見えぬ何かに対して祈る。それは人の本能だからだ。本能の要求があるのは、求めるものが実存するからであろう。のどの乾きに対して水が存在し、欲情に対して異性が存在する。平常は理性で押えていても、いざとなると思わず祈る心がおこるのは、神が存在すればこそである。王仁三郎は述べるo
「祈りは天帝(真の神)にのみすべきものである。他の神さまには礼拝するのである。私はそのつもりでたくさんの神さまに礼拝するのである。そはあたかも人に挨拶するのと同様の意味においてである。誠の神さまはただ一柱しかおわさぬ。他はみなエンゼルである」(『水鏡』「祈りは天帝のみ)
神は尽きることのない電力をたたえた大電源であり、人の霊魂は一個の蓄電池にたとえられよう。祈りはその電源にコードをつなぐことであり、人の霊魂に神気がゆたかに充電されてこそ、勇みに勇んで活動することができる。
「心だにまことの道にかないなば祈らずとても神は守らん」という古歌があるが、それは思い上がりで、祈り行なうという行為がなければ、次元の違う神に通じようがない。そこで王仁三郎は、「心だにまことの道にかなうとも 行ないせずば神は守らじ」と宣り直す。
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安倍政権は中朝戦争に反対していると言われ、だから何がなんでも政権を維持して、祖国(?)北朝鮮が戦争に巻き込まれないように、あるいは中朝戦争によって東アジアの朝鮮族連合が破綻しないように、必死なのかもしれない。安倍政権が転覆すれば中朝戦争が必至とも予測されるなか、韓国系やら北系やらの思惑が交錯しているのが現況なのか。今度の朝鮮南北首脳会談もそれを受けてのこととも考えられる。
明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。ところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。現在の中山家当主は、鬼塚氏の問い合わせに「生母に関しては箝口令がしかれていて、一切答えられない」と言ったそうだ。
これはつまり、明治帝がやはり孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明である。生前に明治天皇は生母に会ってさえいない。「この人間関係の冷たさがーーたとえ生母でなくても会えばいいではないかーー日本の暗黒をより深くし、日本を太平洋戦争へと突き進ませたと思えてならなかった」と鬼塚氏は書いた。昭和天皇も今上天皇もその他皇族も、孝明天皇の子孫と思うのなら、中山慶子の墓を粗末にするはずがないのだ。
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自称無神論者にもいろいろなタイプがある。まず確信派と暖昧派だ。後者は非科学的迷信家と思われるのがいやさに、無神論者の顔をする。もともと神などのしちめんどうな概念は、チリほども思い浮かべない、関係ないといった文化人だ。彼らはさておきで問題にしたいのは確信派の場合だ。確信派の無神論者を生んだ多くの責任は、まず宗教が負わねばならぬ。宗教が今日まで人類に与えた功罪を比較すると、むしろマイナス面の方が大きい。自分の宗派を守るために異端への排他と憎悪をかきたて、どれほど多くの血を流し続けたことか、それも神の名において。現に今なおアラブ諸国では、目をおおう無残な殺戮(さつりく)が行なわれている。
宗教によって迷信がはびこり、神のお告げによって善男善女たちから金がかき集められ、人目を驚かす大殿堂大伽藍が造られる。甘い分前をねだる政治屋は信者面して入りこみ、大きな集票源をつかみとるのだ。
堕落した宗教は、神を鰹節(だし)にして肥え太る大なる悪魔である。確かに「宗教は阿片なり」だ。まともな人間なら、怒りをもって反宗教をとなえよう。反宗教が必然的に無神論者を作り出す。しかし宗教がいかに堕落しようが、在る神は在る。
世界の人口の何割かを占める仏教徒は、宇宙を創造した神など認めない。だが彼らは宇宙の大理法を仏と信じている。換言すれば、王仁三郎のいう宇宙の造化の働き、生成化育の力ではないか。
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平成上皇が堂々、天皇家の祖先は朝鮮から来たんだと記者会見で言って、驚かされたが、つまり祖母の貞明皇后が朝鮮系であることを述べていたのだと思われる。
いずれにせよ、かように日本上層部は、民族的怨念と覇権を巡っての暗闘を続けているのであって、現在の自民党や野党ら政党の争いとか、霞ヶ関の官僚の争いも、そうした背景を知らねば解明はできないものと思われる。
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「宇宙の活動力を、なぜことさら神といいかえる必要があるか。今さら手を合わせて拝まずとも、宇宙は勝手に動いている。ありがたがりやの宗教は、だから嫌いだ」。そう、神という言葉には素直になれない。大半がアレルギーをひきおこす。「ヒト」という言葉もやめよう。ホモ・サピエンスで結構、時には「二本足で歩く哺乳動物」「万物の霊長類」などといい代えたりして。
ついでに「母」もしめっぽい。「私を生んだ女」でいいじゃないか。「父」なる言葉の代わりに、「私を生んでくれた女に私を生ましめた男」とはっきり呼ぼう。待てよ、生ましめたなんて、あの男はそれほどの明確な意志を持っていたかどうか。やっぱり生ましめるに至ってしまったかな。
それで世の中さばさばしそうなものだが、何だか霊魂の脱出したホモ・サピエンスの死体を見るようだ。血のぬくみが伝わらぬ。やはり肉体に精霊を包みこんでこそ、ヒトであろう。
宇宙なる一言葉は純理的、学理的、形式的であり、ひややかな体を思わせる。そこに霊がこもってこそ、力を発揮する。
神の実体を宇宙の活動力と断言する王仁三郎は、その活動力に深奥な神の意志を感じ、広大無辺、壮麗きわまる霊力を観る。その感動をこめて表現するには、「宇宙の活動力」という説明語では血が通わぬ。他に適当な日本語がない限り、やはり神というほかはないのだ。
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万延元年(一八六〇)、大雪のなか登城する大老井伊直弼の行列に水戸脱藩の尊攘派浪士ら一八名が切り込み、井伊を刺殺する。桜田門外の変である。幕府の威信はますます低下し、政権を引き継いだ安部・久世は、尊攘派を牽制せんがため、朝廷に対し、和宮降嫁を強硬に申し入れてきた。
孝明天皇は最初、難色を示す。和宮にはすでに婚約者の有栖川宮がいるうえに、和宮自身も、江戸は蛮夷《ばんい》の集まるとことして恐怖していたからである。ところが幕府は引き下がらず、公武一和のためと重ねて押し戻し、有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなど、次々と外堀を埋めていった。
孝明天皇は板ばさみになって苦悶するが、そこに策略家の岩倉具視が登場する。岩倉は幕府の執拗な降嫁奏請を逆手にとり、降嫁容認は屈服ではなくむしろ「関東へ御委任の政柄を隠然と朝廷へ御収復」する絶好の機会ととらえ、和宮降下を認める条件として、幕府に対して、攘夷の実行や、国家の重要事の奏聞《そうもん》を命じることを天皇に奏上したのである。
岩倉の説得で孝明天皇は和宮降嫁を認めることを決意する。和宮はみずから天皇に「この儀は恐れいり候えども幾重にも御断り」と手紙を書く。無理もなかった。和宮はもの心つかぬうちから熾仁親王を慕い、その妻となる日を夢見つつ成人したのだ。十年の時の流れが、ふたりの心を固く結びつけている。しかし、天皇が九条関白に宛てた宸翰《しんかん》で、この問題がこじれるならば譲位を決意していることを知った和宮はついに承諾する。
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故出口恒さんが論文を残してますし、聖師の落胤を証明する手掛かりになります。
丹波地域は京の女官の供給地であり、有栖川宮の生母、佐伯裕子は亀岡穴太の隣村出身で、和宮と世祢との接点であり、伏見の船宿でたまたま有栖川宮と世祢が出会った訳ではないことを主張すべきと思っています。
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