『豊饒の海』の最初の二巻『春の雪』『奔馬』は比較的分かりやすく、主人公の松枝清顕と飯沼勲も好一対をなしていますが、第三巻『暁の寺』から錯綜してきます。
『奔馬』の最後で蔵原武介を暗殺して自害した飯沼勲がタイの王女ジン・ジャン(月光姫)に転生しますが、ジン・ジャンは主人公とは呼べず、本多繁邦が主人公のような扱いになります。
1941年にタイを訪れた本多と会う7歳のジン・ジャンは前世で世話になった本多を覚えており、飯沼勲が逮捕された年月日を正確に西暦で答えて本多を驚かせます。しかし彼女の左の脇腹には、転生のしるし「三つの黒子」はありませんでした。
戦後、1952年に18歳で来日したジン・ジャンは本多に会いますが、前世の記憶は消えてしまっていました。妻がいながら彼女の魅力にひかれた本多は、ついに御殿場の別荘のプールにジン・ジャンを呼ぶことに成功し、その脇腹に黒子が無いことを確かめました。
ところがその夜、ジン・ジャンが久松慶子と同性愛に耽っているのを覗いていた本多は、左の脇腹に三つの黒子を見出だして驚愕します。そして覗きをしていたのを妻に見つかってしまいましたが、間もなく別荘は火事になり、四人は助かりますが別の二人は焼死しました。
その後ジン・ジャンはタイに帰国して連絡は途絶えます。15年後に本多は米国大使館の晩餐でジン・ジャンによく似た女性に会いましたが、彼女はジン・ジャンの双子の姉で、ジン・ジャンは1954年に亡くなっていたことを知らされました。
さて、ジン・ジャンに黒子は有ったのか、無かったのか。プールで見たときは無かったのに覗きをしたときに有ったというのは、本多が見間違えたのではないかとも考えられます。この「見間違い」を根拠に『豊饒の海』全巻が本多の脳内幻想に過ぎなかったとする見方まであるようです。
しかし、私はこの見方に賛成できません。全てが幻想であったならば、たとえば幼いジン・ジャンが西暦年月日を正確に答えたことなどをどう説明するのでしょうか。
本多の見間違い以外の可能性として、双子の姉の存在が考えられます。姉も密かに来日していて、ときどき入れ替わっていた。そして姉には三つの黒子が有ったのではないでしょうか。
『暁の寺』の中で、今西と椿原夫人(別荘の火事で焼死した二人)が「黒いレースのブラジャー」を渋谷で拾う場面があります。この下着はジン・ジャン姉妹どちらかのものだったように思われます。
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