『音楽の手帖 ワーグナー』(青土社、1981年)で野口武彦氏は『ワグナーと三島由紀夫 トリスタン和音か『唐獅子牡丹』か』という文章を載せ、次のように書いています。
「昭和四十五年十一月二十五日(中略)三島はもちろん、自分が死体となって帰ることは覚悟していたにきまっている。ながく夢見ていた「英雄的な死」の決行。もしかしたら三島は、四人の青年にかこまれながらも、『神々の黄昏』第三幕への間奏曲、あの「ジークフリートの葬送行進曲」を思い浮かべることはなかっただろうか。(中略)ただ記録に残されているのは、三島が車中で歌ったのは『唐獅子牡丹』であったという一事である」
これを読むと、私は小泉文夫氏の言葉を思い浮かべます。小泉氏は世界を旅した民族音楽学者で、1983年に56歳で早世しましたが、いつも日本音楽の行く末を気にかけていました。『音楽の根源にあるもの』(平凡社、1994年)に収められた谷川俊太郎との対談でこう言っています。
「東海林太郎なんかじゃもうがまんできない。それで美空ひばりのようなのがドーンと出てくると、ハレンチだと大ぜいの人が眉をひそめたけれども、大部分のほんとの愛好家はみんな飛びついた。そして森進一です。途中いっぱいあるけれども、森進一の発声法は明らかにあれは新内の発声であって、西洋音楽の影響はかけらもなくなっちゃった。つまり、ほんとに開き直っちゃった。それから、ぴんからトリオなんていう、あられもないというか、ハレンチなのが出てきて、全部の教養や何かをみんな踏みにじって、日本の一番恥ずかしい部分を一ぺんにあらわしてきた。だけど、それに対するあこがれ、要求は非常に根強いんですね」
私にも、思い当たる節はありますが、具体的に書くのは差し控えます。
『天人五衰』で本多繁邦は養子の透に洋食の作法を教えながら、次のように言います。
「純然たる日本人というのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。これからの日本では、そのどちらも少なくなるだろう。日本という純粋な毒は薄まって、世界中のどこの国の人の口にも合う嗜好品になったのだ」
この問題は過去のものではなく、今も横たわっていると私は思います。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

2017年12月1日 考えるところがあり、一部を修正しました。