清顕「有栖川の宮様の国葬には、貴様のファーザーも出るんだろ」
本多「ああ、そうらしい」
清顕「うまい時にお薨れになって下さった。きのうきいたところでは、おかげでどうやら、洞院宮家の納采の儀はのびのびになりそうなんだ」

『豊饒の海』第一巻『春の雪』三十二、鎌倉の海で松枝清顕と本多繁邦が交わす会話です。このとき清顕は日本に留学中のシャム(タイ)の二人の王子を鎌倉の別荘に招いて学習院の夏休みを楽しみながら、親友・本多の助けを借りて綾倉聡子と禁断の恋を続けていました。会話中の「納采の儀」は聡子と婚約した洞院宮治典王との、一般で言う結納のことです。
冒頭の「有栖川の宮様」を私は調べもせず、有名な熾仁(たるひと)親王のことだと思い込んでいました。もちろん将軍徳川家茂に嫁いだ和宮(孝明天皇の妹)の婚約者で明治新政府の総裁・東征大総督の熾仁親王です。ところが調べてみると、熾仁親王は明治28年(1895年)に数え61歳で薨去しており、大正2年(1913年)に亡くなったのは異母弟の威仁(たけひと)親王と分かりました。弟と言っても27も若く、親子ほど年が離れています。しかも三島由紀夫の祖母・平岡なつ(永井夏子)は祖父・定太郎と結婚する前、5年間も有栖川宮家に行儀見習いとして仕えていました。
三島の本名「公威」は、定太郎が同郷の恩人で土木工学者の古市公威から名前をもらったものです。由来はそうであっても、「公威」という名前を知った夏子は直ちに威仁親王を思い出し、孫に重ねたことは容易に想像出来ます。松本健一氏によると、三島の父・平岡梓は定太郎でなく威仁親王の子だったという説もあるとのこと。夏子は明治26年11月27日に結婚し、翌年10月12日に梓を産んでいます。どうにか問題ないようですが・・
面白いことに新宗教「大本」の二大教祖の一人、出口王仁三郎は戸籍上は京都府の農家・上田家の出ですが、後の本人の発言によると、実は有栖川宮熾仁親王のご落胤なのだとか・・そう言えば、昭和45年11月25日の三島の最後の演説には「日本の大本を正す」という言葉が入っています。また、『豊饒の海』で「転生のしるし」となるのは左の脇腹の三つの黒子ですが、王仁三郎も背中にオリオン座の三つ星のような黒子があったと言います。三島は大本教と関係していたのか、気になるところです。
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2017年12月15日 一部、加筆・修正しました。