松本健一『三島由紀夫のニ・ニ六事件』第四章「北一輝と昭和天皇」によると、事件を起こした陸軍将校の一人・磯部浅一(あさいち。事件時は免官で民間人だった)は『獄中日記』昭和11年(1936年)8月28日の項にこう記しています。
「陛下が私共の挙を御きゝ遊ばして、「日本もロシヤの様になりましたね」と言ふことを側近に言はれたとのことを耳にして、私は数日間気が狂ひました。・・今の私は怒髪天をつくの怒りにもえてゐます。・・天皇陛下 何と言ふ御失政でありますか。何と言ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」
これは『英霊の聲』にも通じる怨嗟の声です。ただ私が不思議に思うのは、磯部が北一輝に絶大な信頼を寄せていることです。再び松本氏の著書より『獄中日記』同年8月21日の項から引用します。
「日本改造法案大綱は絶対の真理だ、一点一角の毀却を許さぬ。今回死したる同志中でも、改造法案に対する理解の不徹底なる者が多かった。・・法案は我が革命党のコーランだ、剣だけあつてコーランのないマホメツトはあなどるべしだ。・・特に日本が明治以後近代的民主国なることを主張して、一切の敵類を滅亡させよ」
ここにはハッキリと「革命」「民主」という言葉が使われています。(「コーラン」もちょっと驚きます)三島は北一輝の著書に「何か悪魔的な傲りの匂い」(『奔馬』十八)を嗅ぎ取っていたはずですが、磯部の思想に違和感は無かったのでしょうか。
松本氏によると、三島は「『道義的革命』の論理」という論文で磯部のことを「人間劇の見地から見るときに、もつとも個性が強烈で、近代小説の激烈な主人公ともなりうる人物」と呼び、こう述べました。
「磯部の遺稿の思想は、本質的にその道義革命的性格を貫通しつつ、最後に何ものかを「待つてゐる」ところに特色がある。彼は決して自刃を肯んじなかった。しかし、そのやうにして「待つこと」の論理的必然は、正に自刃の思想と紙一重のところにあることを、つひに意識しなかつたやうに見えるのである」
思うに、三島の思想は北一輝と紙一重であり、彼が北一輝を嫌ったのは北が思想家であって行動家でなかったからではないか・・
昭和12年(1937年)8月19日、北一輝、磯部浅一は他の2名(西田税(みつぎ)、村中孝次(たかじ))とともに刑死しました。西田が「われわれも天皇陛下万歳を三唱しましょうか」と言うと、北が「いや、私はやめておきましょう」と言い、誰も万歳を唱えませんでした。(松本氏の同書序章「昭和史への大いなる影」による)
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