小室直樹氏は『三島由紀夫と天皇』(天山文庫)で次のように述べます。
「『暁の寺』のこの個所は、敬遠されて読まれないことが多い。しかし、唯識哲学の理解なしに三島を理解することは不可能である」  
「仏教を研究しようとする学徒のあいだでは、よく、倶舎三年、唯識八年、といわれる。『倶舎論』を理解するのには三年かかり、唯識論を理解するのには八年はたっぷりとかかるというのだ。それが僅か三島由紀夫の作品では十二頁にまとめられている。エッセンスは、ここにつきている。くりかえし精読する価値は十分にある」
小室氏のいう「この個所」「十二頁」は新潮文庫の『豊饒の海』第三巻『暁の寺』十八と十九のことです。ここで三島は『鏡子の家』で山形夏雄が見つめた「一茎の水仙」を持ち出して説明します。
「目で見、あるいは手で触れて、そこに一茎の水仙の花があるとすれば、少くとも現在の一刹那に、水仙の花、およびこれをめぐる世界は実有である。
それは確かめられた。
では、眠っているあいだ、人はたとえ枕もとの花瓶にこれを活けても、夜もすがらの一刹那一刹那に、水仙の花の存在を確証しつづけることができるであろうか」
そして三島は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の作用が途絶え、第七識たる末那識(マナ識、個人的自我のすべてを含む)が世界を気ままに取り扱っても、水仙の花の存在を一瞬一瞬、不断に保証する識がなくてはならぬ、それが阿頼耶識(アーラヤ識、存在世界のあらゆる種子を含む)、北極星のような究極の識だとします。
「なぜなら、迷界としての世界が存在することによって、はじめて悟りへの機縁が齎らされるからである。
世界が存在しなければならぬ、ということは、かくて、究極の道徳的要請であったのだ」
最新の天文学では、宇宙は138億年前にビッグバンで誕生したということのようですが、なぜ宇宙が存在するかと考えると、自然科学で答えが見つかるとは思えません。三島は一つの答えを出しました。
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