明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。
去年の最後は『豊饒の海』第三巻『暁の寺』十八・十九を取り上げましたが、今年の最初は『暁の寺』十三に注目します。ここで面白いのは「豊饒」という言葉が2回現れることで、『豊饒の海』全巻を通じて本文に「豊饒」の語が使われるのはここだけです(たぶん・・)。第一巻『春の雪』の最後に『豊饒の海』のタイトルを説明した後註があり、第四巻『天人五衰』の最後に「豊饒の海」の完結と日付が記されているのを除けば。
「ディオニュソスはアジアから来た。(中略)この狂熱が、あれほどにもアポロン的だったギリシアの野の豊饒を、あたかも天日を暗くする蝗(いなご)の大群のように襲って来て、たちまち野を枯らし、収穫を啖(くら)い尽したときのすさまじさを、本多はどうしても自分の印度(インド)体験と比べて想い見ずにはいられなかった」
ここでは「豊饒」が太陽神アポロンと結び付けられていますが、これは直ちに1969年7月に月着陸を果たしたアポロ11号を連想させます。「豊饒の海」ではなく「静かの海」でしたが・・。そこは地球の海とは似ても似つかぬカラカラの沙漠でした。
「神は昼と夜、
神は冬と夏、
神は戦争と平和、
神は豊饒と飢餓、
たださまざまに変成(へんじょう)するのみ」
もう一つは「万物流転」の哲学者ヘラクレイトスの思想です。ここでも「豊饒」はその反対の「飢餓」と一緒に登場します。この思想に接した本多繁邦は「或る解放」を覚えながらも、「それほどの無辺際の光明を浴びるには、まだ自分の感性も思想も熟していない」と感じました。しかし『豊饒の海』の最後まで、本多がヘラクレイトスに戻った様子はありません。「万物流転」は世親(ヴァスバンドゥ)の「恒に転ずること暴流のごとし」に似ており、唯識をヘラクレイトスの発展と見ることも出来るかもしれません。
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