『豊饒の海』のタイトルは月の地名から取ったものです。三島由紀夫自身が註釈していますから、それは間違いないことです。月の模様をウサギの餅つきと見た場合、ウサギの片方の耳に当たるのが「豊饒の海」です(今日では普通「豊かの海」と呼ばれます。ちなみにアポロ11号が着陸した「静かの海」はウサギの顔の部分です)。
しかし第四巻『天人五衰』の冒頭で安永透が望遠鏡で眺める海の描写は、全巻を通じても出色のものです。
「海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義(アナーキー)
「船の出現! それがすべてを組み変えるのだ。存在の全組成が亀裂を生じて、一艘の船を水平線から迎え入れる。そのとき譲渡が行われる。船があらわれる一瞬前の全世界は廃棄される。船にしてみれば、その不在を保障していた全世界を廃棄させるためにそこに現われるのだ」
「刹那刹那、そこで起っていることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎている。世界が存在しているなどということは、まじめにとるにも及ばぬことだ」
「船でなくともよい。いつ現われたとも知れぬ一顆の夏蜜柑。それでさえ存在の鐘を打ち鳴らすに足りる。
午後三時半。駿河湾で存在を代表したのは、その一顆の夏蜜柑だった」
これは海の描写というより、『暁の寺』で解説された唯識哲学が詩的に表現されているというべきでしょう。そこでは「一茎の水仙」だったものが、ここでは「一艘の船」「一顆の夏蜜柑」になっています。
小室直樹氏は『三島由紀夫と「天皇」』で次のように述べます。
「仏教における因縁のダイナミズムを、これほど見事に表現した文章をほかに知らない。唯識論の視点から見るならば、阿頼耶識は水、その他の識を波、縁を風だとすればよいであろう」
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