明治時代の歴史学者・那珂通世は日本書紀を調べ、後世の天皇家一世代の平均が28年であることから
「もし日本書紀の系図が正しいならば、神武天皇の時代は西暦紀元前660年ではなく、紀元元年前後となる」
と結論しました。私が推定する神武天皇の時代は西暦100年前後ですから、3ないし4世代短いわけです。日本書紀の年代だけでなく、系図もどこかが間違っていることになります。
古代の天皇の諡を見て気づくことは「孝昭・孝安・孝霊・孝元」と第5代から第8代まで「孝」から始まる諡が続くことです。これは前漢と後漢の皇帝も同じです。(三国時代以後は違います)前漢では初代の高皇帝(劉邦)を除き、第2代の恵帝(孝恵皇帝)以後は「孝」から始まります。後漢も初代の光武帝を除き、第2代の明帝(孝明皇帝)以後は「孝」から始まります。それなら日本も、初代の神武天皇を除き、第2代以後は「孝綏・孝安・孝懿・・」となりそうなものですが、何故そうでないのでしょうか。第9代の開化天皇以後は、中国が三国時代に入ったことで説明できそうですが・・
実は「孝昭」という諡の皇帝は前漢にいました。昭帝(孝昭皇帝、在位は紀元前87年~同74年)です。昭帝は武帝(孝武皇帝、紀元前141~同87)の末っ子です。武帝は初代ではありませんが、偉大な皇帝でした。『後漢書』倭伝は次のように始まります。
「倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす。凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり」
武帝は紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡など四郡を置き、ここから漢と倭の本格的な交流が始まりました。
それはともかく、淡海三船が第5代以後の諡に「孝」をつけ、その最初が「孝昭」であることは、日本書紀の系図の誤りを暗示しているように思われます。昭帝が武帝の末っ子だったように、孝昭天皇は神武天皇の末っ子だったのではないでしょうか。実は神武天皇も四人兄弟の末っ子で、兄たちは先に亡くなりました。綏靖・安寧・懿徳の三代は古代の天皇たちの中で例外的に短命で(と言っても古事記では三人とも40代ですが)在位年数も短いです(と言っても日本書紀では三代とも30年余り)。綏靖から孝昭までが兄弟ならば、世代数は3世代減って、私の推定が正しい可能性が出てきます。その分、新しい謎も出てきます。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

2018年2月9日追加
本記事では武帝と昭帝の関係に着目しましたが、昭帝の後を継いだ廃帝・劉賀は昭帝の甥です。これに意味があるなら、孝昭天皇の後を継いだ孝安天皇も息子ではなく、甥かもしれません。孝安天皇の父が安寧天皇なら「安」が共通しています。安寧天皇の和名は「シキツヒコタマテミ」で、「シキツヒコ」という息子がいるのが気になります。このシキツヒコが孝安天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)と同一人物かもしれません。今後の課題です。

2018年2月16日追加
古事記の安寧天皇系譜に注目です。シキツヒコの子「和知都美」はヤマトタラシヒコ(孝安天皇)のことでしょう。和はヤマト、知は治めるの意味です。その娘がオオヤマトクニアレヒメで、この女帝が本来の孝霊天皇ではないか。
綏靖・安寧・懿徳天皇に「孝」がつかないのは、この3人が若くして亡くなり、中国で言う「少帝」扱いだからとも考えられます。

2018年2月25日追加
中国の南北朝時代の6世紀の北斉にも「孝昭皇帝」(高演)がいて、こちらは「神武皇帝」(高歓)の第六子です。こちらのほうが前漢より重要です。