三島由紀夫の『日本文学小史』におけるヤマトタケル(古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊)については以前に書きましたが、古事記の倭建命には奇妙な記事があります。父である景行天皇(第12代)について記した次の系譜もその一つです。
「この天皇・・倭建命の曾孫、名は須売伊呂大中日子王の女、訶具漏比売(かぐろひめ)を娶して生みましし御子、大枝(おおえ)王」
どう考えても起こり得ないことです。ヤマトタケルと景行天皇は親子でなく、全く別人とする伝承があったものと見られます。ヤマトタケルには浦賀水道で入水した弟橘比売との間に生まれた若建(ワカタケル)王をはじめ、全部で6人の息子がいましたが、フタヂノイリビメが生んだタラシナカツヒコが後に仲哀天皇(第14代)として即位することになります。
ワカタケルと言えば、埼玉県の稲荷山古墳で出土した鉄刀の銘文を思い出す人が多いでしょうが、そこに刻まれた「ワカタケル大王」は第21代雄略天皇のことで、もちろん別人です。雄略天皇は、前回に取り上げた三島由紀夫の『軽王子と衣通姫』の軽王子の末の弟です。ワカタケルには軽王子を含めて4人の兄がいましたが、軽王子に代わって即位した安康天皇(第20代)が目弱(マヨワ)王という7歳の子供に殺された後、残る2人の兄を殺して即位しました。ワカタケルが2人の兄を殺す場面は、オウス(ヤマトタケル)が兄オオウスを殺す場面に似ています。彼は中国の歴史書『宋書倭国伝』に登場する「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)の一人、武であると考えられます。
最後に、初代の神武天皇の謎についても書いておきます。日本書紀では即位の年を紀元前660年、干支は辛酉(かのと・とり、しんゆう)としていますが、この「辛酉」だけを信用して西暦61年とか、121年、181年が真実の即位年だとされる方もいます。私はどうも、この干支だけを信じることが出来ず、別の年ではないかと考えています。想像説ではありますが、後漢の章帝の元和2年(西暦85年)、干支は乙酉(きのと・とり、おつゆう)ではないでしょうか。この年は光武帝が後漢の初代皇帝に即位した建武元年(西暦25年)から60年後に当たり、干支が同じです。余裕がある場合、この年に合わせる可能性はありそうに思えます。
もう一つ、こちらも想像説ですが、景行天皇の九州巡幸伝説があります。これは古事記には無く、日本書紀だけに載っています。年代は景行天皇12年(西暦82年、後漢の章帝の建初7年)から19年(89年、和帝の永元元年)までの7年間で、神武天皇の東征と同じ年数です。これが私の推定する神武東征の年代にほぼ一致するので、日本書紀の編者たちが真実の年代をここに隠した可能性もあります。その場合、神武天皇の即位年は89年、干支は己丑(つちのと・うし、きちゅう)です。
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2018年2月13日追加
日本書紀の景行天皇の九州巡幸が始まった西暦82年は後漢の章帝の建初7年ですが、劉肇(後の和帝)が皇太子になった年でもあります。