以前の投稿で、神武天皇が実在した場合、その即位年は西暦85年か89年ではないかと推定しましたが、日本書紀に出てくる第12代景行天皇12年(西暦82年)から19年(89年)の九州巡幸は注目すべき記事だと思います。神武天皇が日向を後にしてから、そこに「里帰り」した天皇は、古代では景行天皇だけです。すぐ後に第14代仲哀天皇や神功皇后、7世紀の第37代斉明女帝も北九州に遠征しましたが、南九州には行っていません。九州巡幸の期間が7年であるのも神武天皇の東征(紀元前667年~同660年)と同じです。
不思議なのは、この九州巡幸の記事が古事記には無く、「日向のミハカシビメを娶ってトヨクニワケ王を生んだ」という系譜記事があるだけだということです。古事記中巻の景行天皇の段はヤマトタケルの記事で埋め尽くされ、三島由紀夫が言うように「景行天皇御自身の事蹟はかげに隠れた」状況ですが、仲哀天皇や神功皇后の九州・新羅遠征は詳しく記しながら、不自然なことです。  
後漢の和帝(劉肇)は西暦79年に生まれ、82年に数え年4歳で皇太子になり、88年に即位し、89年に「永元」と改元しました。この年代が九州巡幸と重なります。実はこの年代が神武東征の年代であることが暗示されているように思われます。
一方、こちらも以前から指摘していますが、105年に和帝が死んだ後は皇后の綏が幼い皇帝の摂政となり、107年には倭国王帥升(第2代綏靖天皇か)から160人もの生口を献上されました。121年に綏が死ぬと安帝が親政を行い、125年の安帝の死後は劉懿が少帝として即位しました。この3人の摂政・皇帝の名前・諡号が綏靖・安寧(第3代)・懿徳(第4代)天皇に取られたようです。こちらからも、神武天皇の在位は和帝と同時代になります。
歴代天皇の漢風諡号は淡海三船が考えたと言われますが、日本書紀を編纂した舎人親王たちと三船の認識は一致していたように思われます。ただ、82年と89年が和帝の立太子と改元にぴったり合っているので、厳密にこの年である可能性は低いでしょう。第10代崇神天皇の258年没、第11代垂仁天皇の232年誕生より古い年代の記録はなく、和帝の時代という情報だけが伝わっていたのではないかと思います。
神武東征の期間が7年間とされているのも、和帝の立太子から改元までの期間から決められたのかもしれません。古事記では筑紫に1年、安芸と吉備に15年いたとあり、少なくとも16年以上かかったとされています。
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