日本書紀の推古天皇紀には、日本最古の日食が記録されています。

推古天皇三十六年三月戊申(2日)、日蝕え尽きたり。

これは西暦628年4月10日に当たります。古天文学者の斉藤国治氏は『星の古記録』(岩波新書、1982年)で詳しく解説しました。

『日本書紀』を手にとって、ゆっくりその前後の記事を眺めると、これは只事でないことに気づくであろう。
すなわち、この日の四日前の二月二十七日の条には、「天皇臥病(みやまい)したもう」とあり、この後に三月二日の日食がつづき、そして三月六日には、「天皇痛み甚だしく、緯むべからず」という危篤状態になった。天皇は田村の皇子(のちの舒明天皇)と山背の大兄(聖徳太子の王子)とを病床近くに召して、親しく遺言をのべ、翌七日にわかに崩御された。時に御年七五と記されている。
(中略)病に伏して四日目に日食に見舞われては、彼女も生きる気力を失ったことであろう。現代人の心にもこの日食は、何か女王の死と深い関わりをもつように感じられる。

「日蝕え尽きたり」とは皆既日食のようですが、飛鳥京では皆既帯をわずかに外れ、93%という深い部分日食だったと計算されています。
推古天皇の時代まで、日本では天文記録と言えるものがほとんど皆無に近く、この8年前の推古天皇28年(西暦620年)12月1日の条に次のような記事があるだけです。

天に赤き気有り。長さ一丈余。形雉尾に似たり。

よく分かりませんが、オーロラ説、彗星説があります。
次の舒明天皇の時代になると天文記事が急増します。632年に天文を学んだ留学僧の旻(みん)が帰国したことによりますが、やはり日食の衝撃が大きかったのではないかと思われます。
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