コリン・ウィルソンは『アウトサイダー』でドストエフスキーを評して次のように書いています。

『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、『白痴』の三篇は、かつて書かれた偉大な小説の最も杜撰のものであろう。もちろん、そう言ったからには、これらの作品は、かつて書かれた最も偉大な小説の部類に属するとつけ加えねばなるまい。(中村保男訳)

数年前に『カラマーゾフの兄弟』を読みましたが、買っただけで読んでいなかった『悪霊』を何故いま読む気になったのかは分かりません。『悪霊』はネチャーエフ事件から構想されたと言われ、ネチャーエフをモデルにしたピョートル・ヴェルホヴェンスキーの父であるステパン氏の一代記と冒頭で説明されています。ステパン氏は間が抜けた愛すべき老人ではありますが、重要人物ではありません。ステパン氏を支える女性(将軍の未亡人)の息子ニコライ・スタヴローギンは多くの奇行を重ねる「アウトサイダー」で、ピョートルに利用されるのを拒み、最後は「告白」を書いて首を括ることになります。
技師のキリーロフも自殺して果てますが、コリンが指摘するように「問題の要点を逸した」スタヴローギンと違って「宗教もなく、神への信仰すらもたずに、キリーロフは聖者の境地に達した」ようです。第二部の第一章でキリーロフはスタヴローギンと会話します。

「きみは葉を見たことがありますか、木の葉を?」
「ありますよ」
「ぼくはこの間、黄色い葉を見ましたよ(中略)太陽にきらきら輝いているのをです。目をあけてみると、それがあまりにすばらしいので信じられない、それでまた目をつぶる」
「それはなんです、たとえ話ですか?」
「いいや・・なぜです? たとえ話なんかじゃない、ただの木の葉、一枚の木の葉ですよ。木の葉はすばらしい。すべてがすばらしい」(江川卓訳)

『カラマーゾフの兄弟』でアリョーシャが星の下で感じた悟りであり、三島由紀夫の『豊饒の海』『暁の寺』で本多繁邦がインドで感じた悟りでもあるのでしょう。

インドでは無情と見えるものの原因は、みな、秘し隠された、巨大な、怖ろしい喜悦につながっていた! 本多はこのような喜悦を理解することを怖れた。

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