『金閣寺』の主人公、溝口は丹後由良で「金閣を焼かなければならぬ」と決意しますが、旅館の窓辺で考え続けます。

たとえば、ただ家事の便に指物師が作った小抽斗(こひきだし)も、時を経るにつれ時間がその物の形態を凌駕して、数十年数百年のちには、逆に時間が凝固してその形態をとったかのようになるのである。一定の小さな空間が、はじめは物体によって占められていたのが、凝結した時間によって占められるようになる。それは或る種の霊への化身だ。

そして溝口は中世のお伽草子の一つ「付喪神記(つくもがみき)」の冒頭を思い出します。

「陰陽雑記云、器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑(たぶらか)す、これを付喪神と号すといへり。是(これ)によりて世俗、毎年立春にさきたちて、人家のふる具足を、払いたして、路次にすつる事侍り、これを煤払といふ。これ則(すなはち)、百年に一年たらぬ、付喪神の災難にあはしとなり」

澁澤龍彦の『思考の紋章学』でも「付喪神」が取り上げられ、『金閣寺』に言及されています。

焼いてしまえば、「世界の意味は確実に変るだらう」ー金閣寺はこの場合、器物の化けものとアナロジカルなフェティッシュ、恐怖と魅惑をこもごも放射する一つの物体なのだ。建築物のような大きなものでも、観念の世界では、いくらでも小さなフェティッシュになり得るのである。

澁澤は上記の文章に続けて「私は、こういうフェティッシュに憑かれるような気質をもった画家でなければ、とても妖怪画などというものは描けないのではないかと思わざるを得ない」と書き、伊藤若冲やボッシュを挙げますが、円山応挙も幽霊画で有名です。応挙は出口王仁三郎の先祖でもあり、『金閣寺』にも名前が出てきます。
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