稲垣足穂は『新潮』1965年1月号に載せた「蔵書一冊「作家のプライド」」というエッセイで、広辞苑が私の唯一の蔵書だと書いています。冒頭の部分は次のようです。

恵心僧都の年代に五百年もの狂いがあるので、その由を注意したところ、新版では直してあるとのことであった。又、看聞御記の著者が御崇光天皇とあるので、「そんなミカドはいない。それは後花園天皇のお父さんで、太上皇を贈られた後崇光院のことであろう」と云ってやると、「なるほど間違っていた、さっそく訂正する、有難う」との返事がきた。

こんな足穂ですが、末尾のほうで『葉隠』に触れているのが興味を引きます。少し前から引用します。

自動車も飛行機も、私には四十年前に卒業済みだ。ロケットは、エスノート・ペルテリ、オーベルト博士、ゴッダート教授の頃からのお馴染である。十二、三の頃、このまま英国へでも行ってしまいたいと思っていたのだから、その希望が失われたのだから、いまさら何処へも行きたいとは思わない。"Anywhere, out of world"(中略)
では創作にいそしむわけか? これだってタカが知れている。葉隠の口述者が、「若い者には誤解される懼れがあるので聞かされないが」と前置きして、次のように述べている。「人の一生は短いから、なるべく好きなように暮せばよいのである。自分は寝るのが好きだから、暇があったら横になっている」と。

私などは若い頃にこの文章を読んで誤解してしまったのかもしれません。
三島由紀夫も『葉隠入門』でこの文章に注目しています。

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という「葉隠」のもっとも有名なことばは、そのすぐ裏に、次のような一句を裏打ちとしているのである。
「人間一生誠にわづかの事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへつひに語らぬ奥の手なり」と言っている。

お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m