「葉隠」は一応、選びうる行為としての死へ向かって、われわれの決断を促しているのであるが、同時に、その裏には、殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たわっている。人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強いられることもできない。

『葉隠入門』で三島由紀夫が展開する「死」の議論には、宗教的な「自力」と「他力」の対立が反映されているように思われます。三島はさらに具体的に解説します。

ある場合には完全に自分の選んだ死とも見えるであろう。自殺がそうである。ある場合には完全に強いられた死とも見えるであろう。たとえば空襲の爆死がそうである。
しかし、自由意思の極致のあらわれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、ついに自分で選んで選び得なかった宿命の因子が働いている。また、たんなる自然死のように見える病死ですら、そこの病死に運んでいく経過には、自殺に似た、みずから選んだ死であるかのように思われる場合が、けっして少なくない。

三島は第二次大戦中の「神風特攻隊」のイメージを『葉隠』の死の理想に近いと評価しますが、当然に予想される反発も考慮しています。この考慮が十分なものかどうかは議論がありそうです。

いま若い人たちに聞くと、ベトナム戦争のような誤った目的の戦争のためには死にたくないが、もし正しい国家目的と人類を救う正しい理念のもとに強いられた死ならば、喜んで死のうという人たちがたくさんいる。
(中略)
しかし、人間が国家の中で生を営む以上、そのような正しい目的だけに向かって自分を限定することができるであろうか。またよし国家を前提にしなくても、まったく国家を超越した個人として生きるときに、自分一人の力で人類の完全に正しい目的のための死というものが、選び取れる機会があるであろうか。

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