三島由紀夫の『禁色』(きんじき)を読みました。野口武彦によれば「『盗賊』を作者自身の呼称にしたがって「試作」、『仮面の告白』を戦後文壇への登場作であるとすれば、この『禁色』は質量ともに戦後文学の世界の中で三島氏の作家的地位を不動のものにした作品」であり、極めて興味深いですが、女性を愛さない美青年・南悠一が妻・康子の出産に立ち会う場面に今日は注目したいと思います。
現代でも妻の出産に立ち会う夫は多くはないと思われます。まして戦後すぐの時代では全く考えられないことだったでしょう。悠一は老作家・檜俊輔から「それが出来れば、おそらく君には新らしい生活がはじまる筈だが、まあ無理だろう」とけしかけられ、「きっと後悔しますよ」「なんて酔興でしょう」と呆れられながら、ついに立ち会いを強行します。

『見なければならぬ。とにかく、見なければならぬ』と彼は嘔吐を催おしながら、心に呟いた。『(中略)外科医はこんなものにはすぐ馴れる筈だし、僕だって外科医になれない筈はないんだ。妻の肉体が僕の欲望にとって陶器以上のものではないのに、その同じ肉体の内側も、それ以上のものである筈はないんだ』

しかし、それは陶器以上のものでした。「康子の下半身のまわりで行われている作業は、嵐に抗する船の船員の作業のような、力をあわせた肉体労働」に類するものでした。
生まれたのは女の子で、後に「渓子」と名付けられました。康子は悠一も渓子も見ようとせず、微笑も浮かべません。

この無感動な表情は、正しく動物の表情で、人間がめったなことではうかべることのできなくなった表情である。それに比べると、人間のどんな悲喜哀歓の表情も、お面のようなものにすぎないと悠一の中の「男」は思った。

「出産」と「切腹」の相似については言い古されていますが、やはり連想してしまいます。
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