虫明亜呂無はエッセイ集『仮面の女と愛の輪廻』に収められたエッセイ『なぜジムに行くか 三島由紀夫の肖像』(『小説新潮』1968年1月号)の中で、「氏のたのしむのはなにか」と自問し、次のように答えています。

時間にすべてが規律正しくしばられていることなのである。休むことなく、果さねばならない仕事がつづいていることである。その時間と仕事によって、氏は自分で自分をがんじがらめにして縛りあげる。それから、その中をくぐりぬけて出てくる、精神の「体操」をたのしむのである。

確かに三島の一面を的確に捕らえています。亜呂無は三島の論文『古今集と新古今集』の中の一文を引用して、三島文学の変遷を説明します。

「私はこの二十年間、文学からいろんなものを一つ一つそぎ落して、今は言葉だけしか信じられない境界へ来たやうな心地がしてゐる。言葉だけしか信じられなくなつた私が、世間の目からは逆に、いよいよ政治的に過激化したやうに見られてゐるのは面白い皮肉である。」・・
氏の一連の最近作『英霊の声』『憂国』『朱雀家の滅亡』の主題は、幻想と言葉こそが事実を越えて、日本人の情念の源であることを証明するものである。
これらの作品の魅力こそが、三島由紀夫氏の魅力なのだ、と、ぼくは考えたい。

亜呂無は次のエッセイ『深夜のボーリング場から 厳格主義者・伊丹十三』(『小説新潮』1968年5月号)の冒頭でも三島由紀夫の言葉を紹介しており、ここにも三島の思想がよく現れています。

世界バンタム級タイトル・マッチ。ファイティング原田は、ローズに敗けた。原田は気力だけで十五ラウンドを闘った。
あくる日、三島由紀夫氏が、ぼくに、
「肉体は敗れた。あとは何十年もの余生を精神だけで生きてゆく。原田はまだ二十四歳の若さだというのに、これは、ゴウモンですよ」と、言った。

お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m