四つの福音書の中で「ヨハネ福音書」は特に興味深いです。書き出しのところから、ギリシア哲学を思わせます。

世の始めに、すでにロゴス(言葉)はおられた。ロゴスは神とともにおられた。ロゴスは神であった。この方は世の始めに神とともにおられた。一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの一つもない。この方は命をもち、この命が人の光であった。この光はいつも暗闇の中に輝いている。

「パン問答」のイエスの言葉は「火の鳥」伝説を思わせます。

アーメン、アーメン、わたしは言う、人の子わたしの肉を食べず、その血を飲まねば、あなた達の中に命はない。わたしの肉を食い、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ。わたしはその人を最後の日に復活させる。わたしの肉は本当の食べ物、わたしの血は本当の飲み物だから。わたしの肉を食いわたしの血を飲む者は、わたしに留っており、わたしも彼に留っている。

他の三つの福音書では、イエスは最後の晩餐で弟子達にパンと葡萄酒を与えて「これはわたしの血であり、体である」と言います。
手塚治虫の『火の鳥』は日本人向けに女性化されていますが、まさにイエス・キリストを表しているように思われます。佐藤忠男が指摘していたように、『火の鳥』望郷編は紛れもなく旧約聖書のパロディです。
三島由紀夫は手塚治虫の漫画を日教組やマルクシズムと結び付けて嫌っていたようですが、三島らしくもない浅薄な見方だと思います。「聖セバスチャン」への三島の傾倒は、イエス・キリストと紙一重、というより同一ではないでしょうか。「日本」「天皇」を重んじる三島の立場が、それを意識させなかったのかもしれません。「日本」「天皇」に何の価値も置いていない稲垣足穂は躊躇せず

キリストはダンディーの極致である。

と『弥勒』で書いています。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m