前々回の投稿で私は田中角栄のことを書きましたが、戦後の総理大臣でもう一人、忘れられがちですが重要な人物がいます。それは石橋湛山(いしばし・たんざん)です。惜しいことに、僅か2ヵ月の在任期間でした。
私は湛山が1973年4月25日、88歳で亡くなったことを報じた中日新聞を読んだことを微かに覚えています。私は小学校五年生で、湛山は名前を知っているだけでした。その後、日本史を学んでも彼に深く興味を持つことは無く、この本を読むまで何も知りませんでした。
湛山が亡くなった時、その葬儀は自民党葬として行われました。当時の自民党総裁は総理大臣でもあった田中角栄です。前年の9月に角栄が訪中し、日中の国交正常化が実現したばかりでした。葬儀で田中角栄は、日中国交正常化に大きな役割を果たした湛山に深く感謝したのでした。
1956年12月、日ソ国交正常化と国連加盟を果たした内閣総理大臣・鳩山一郎が引退した時、後継を争ったのが岸信介と石橋湛山でした。アメリカ一辺倒の岸に対抗して、湛山は中国との国交正常化を主張しました。湛山は僅差で岸を破り、総理大臣に指名されました。岸が後を継ぐのを期待していたアメリカのジャパン・ハンドラーたちは慌てました。
しかし湛山は不幸にも病魔に襲われ、2か月の静養が必要と診断されました。彼が厚顔無恥な普通の政治家なら、総理の椅子にしがみつくことは可能だったでしょう。しかし湛山はそうしませんでした。
湛山はジャーナリストの出身です。早稲田大学の哲学科を出て東洋経済新報社に入り、通勤電車の中で経済学を学び直し、当時の大日本帝国の軍部や右翼を怒らせるようなリベラルな論説を発表し続けました。

湛山の意図は明白であった。・・口に正義人道、東洋平和、日中友好を叫びながら、その実行うことは侵略主義に他ならぬ日本外交の偽善性をたたいていたのだ。・・「初めから我が国民は、彼の国民を劣等扱いにしておるのである。少なくとも肩を並べて親しもうとはしないのである」「その責任はほとんど全く彼れに無く、悉く我れの負うべきもの」(160頁)
賢明なる策はただ、何等かの形で速に朝鮮・台湾を解放し、支那・露国に対して平和主義を取るにある。而して彼等の道徳的後援を得るにある。かくて初めて、我国の経済は東洋の原料と市場とを十二分に利用し得べく、かくて初めて我国の国防は泰山の安を得るであろう。(181頁)

湛山は朝鮮の独立運動にも理解を示し、朝鮮・台湾・南樺太などの植民地を放棄して加工貿易に専念せよという「小日本主義」を唱え、戦後の日本国憲法の中心理念となる「国民主権」を主張しました。彼は日本が嫌いだったわけではありません。彼は日蓮宗の仏門の子でした。小欲に拘る愚を戒め、大欲につくべきと考えたのです。
1930年に当時の総理大臣・浜口雄幸が撃たれて重傷を負いながらも総理の椅子にしがみつき続けたとき、湛山はこれを激しく責めました。当然のことではありますが、自分が同じ立場になった時、同じ行動が出来る人間は多くいません。湛山はそれが出来ました。素晴らしいことですが、湛山がしぶとく総理大臣を続けてくれていたら・・と惜しむ気持ちもあります。
湛山の後継は副総理の岸信介と決まりました。今更言うまでもありませんが、岸は今の総理大臣・安倍晋三の祖父で、アメリカとの戦争を始めた東条英機内閣の商工大臣であり、戦後はA級戦犯容疑者としてアメリカ軍に逮捕された人物です。東条ら7人が処刑された翌日、岸は釈放されました。おそらく、彼が満州国の官僚だった時代に得た機密情報をアメリカに渡し、今後はアメリカに絶対服従することを誓って釈放されたのでしょう。昭和天皇は「本当に岸でよいのか」と懸念されたそうです。
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