三島由紀夫の『金閣寺』の第四章、主人公の溝口が内飜足(ないほんそく)という不具をもつ柏木と出会う場面で、柏木は自分の内飜足を解説してみせます。

・・しかし忽ち内飜足が俺を引止めにやって来る。これだけは決して透明になることはない。それは足というよりは、一つの頑固な精神だった。それは肉体よりももっと確乎たる「物」として、そこに存在していた。
鏡を借りなければ自分が見えないと人は思うだろうが、不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。その鏡に、二六時中、俺の全身が映っている。忘却は不可能だ。

溝口はこれより前、第二章で親友の鶴川と南禅寺を訪れた時、これから出陣する若い陸軍士官と、彼の子を孕んだ女との「別れの儀式」を目撃します。女は乳房の片方を引き出し、士官が捧げ持つ茶碗に白いあたたかい乳をほとばしらせ、士官は乳の混じった茶を飲み干したのです。
溝口は第六章で柏木に導かれ、この女と再会します。すでに鶴川は亡く、士官は戦死し、子供は死産でしたが。
「そうやったの。いやア、そうやったの。何ていう奇縁どっしゃろ。奇縁てこんなことやわ」
女はそう言って、溝口の前で左の乳房を掻き出して見せました。

私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美と官能とを同時に見出すところよりも、はるかに後から来る。みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、・・肉を乗り超え、・・不感のしかし不朽の物質になり、永遠につながるものになった。
私の言おうとしていることを察してもらいたい。又そこに金閣が出現した。というよりは、乳房が金閣に変貌したのである。

これを柏木の内飜足の描写にきわめて似ています。溝口流に言えば、内飜足は柏木にとっての「金閣」であったということでしょうか。

こうして又しても私は、乳房を懐ろへ蔵う女の、冷め果てた蔑みの眼差に会った。私は暇を乞うた。玄関まで送って来た女は、私のうしろに音高くその格子戸を閉めた。

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