三島由紀夫と東大全共闘の伝説的な公開討論は1969年5月13日に行われました。同年1月には機動隊を迎え撃った安田講堂攻防戦があり、東大入試も中止されました。公開討論も安田講堂で行われたと勘違いしている人もいますが、本郷ではなく駒場キャンパスの講堂(900番教室)でした。
30年後の1999年、全共闘のメンバーは再び集まりました。その一人・木村修氏は当時の会場の緊迫を回想します。

・・つまりまあ公式主義的な世俗的な理解に基づいて、三島由紀夫イコールファシストであるというような世俗的な理解に基づいて潰しに来るようなところがあるかもしれない。ただそれに対してはこれはゲバルト(暴力的対決)になるのはやむを得ないと、その覚悟はしてましたね。付け加えて言うと、三島さんが襲われるかもしれないというんで「楯の会」のメンバーが十人ほど来てたそうです。

しかし、当の三島は「愉快な経験」をしました。

・・ふと見ると、会場入口にゴリラの漫画に仕立てられた私の肖像画が描かれ、「近代ゴリラ」と大きな字が書かれて、その飼育料が百円以上と謳つてあり、「葉隠入門」その他の私の著書からの引用文が諷刺的につぎはぎしてあつた。私がそれを見て思はず笑つてゐると、私のうしろをすでに大勢の学生が十重二十重と取り囲んで、自分の漫画を見て笑つてゐる私を見て笑つてゐた。

この討論で三島が用意していた論理は次の五つでした。

一は暴力否定が正しいかどうかといふことである。
二は時間は連続するものか非連続のものかといふことである。
三は三派全学連はいかなる病気にかかつてゐるのかといふことである。
四は政治と文学との関係である。
五は天皇の問題である。

三島は討論を振り返る文章に『砂漠の住民への論理的弔辞』というタイトルを付けています。文中に「了解不可能な質問と砂漠のやうな観念語の羅列の中でだんだんに募つてくる神経的な疲労は・・」とありますが、中東の砂漠に向かった日本赤軍を予感させる表現にも思えます。思えば田中角栄も、オイルショックに対処するためアラブ(アブラ、石油)重視の外交をせざるを得ず、アメリカとイスラエルにやられました。
木村修氏は三島の死について次のように述べています。

三十年前、日本は自衛隊のヴェトナム派兵を、当時の米国ニクソン大統領から強く要求されていて日本政府は屈服寸前だった。韓国は既に派兵していた。彼は生命を賭けて阻止に向かったのだと思う。

これも一つの見方です。
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