橋本治という人は、大学も学部も学科も私の先輩になりますが、今まであまり読んできませんでした。大学時代の苦い失恋の想い出があるからです。相手の美人の女子大生は『桃尻娘』が面白いというので、私が読んでみると全然面白くなかった。正直にそう言ったら嫌われてしまいました。
それはともかく、『「わからない」という方法』は面白い本です。たとえば125~126頁を見ると・・

私は、自分の編んだセーターを自分で着ていたのであるが、その一番最初のセーターを見た時の、きれいなおネーさん達の反応はすごいものだった。
「誰が編んだの、それ?」
「俺」
それで納得したおネーさん達は、メチャクチャなことを言い始めた。
「道理で・・」
「メチャクチャだもんね」
「編み目が抜けてる」
「よくさー、知恵遅れの子がこういうの作るよね」という、差別的なことさえも言った。
私は、自分の中に存在する「知恵遅れ性」を理解しているからかまわないが、知的できれいなおネーさん達が平気で差別的であることに、私はいささかあきれた。私は、「へー、えらいわねー」くらいのことを言ってもらえるもんだと思っていたのである。

私も職場で面と向かって「知恵遅れ」と言われたことがあります。
橋本治はバカがつくほと丁寧な編み物の本を書いていますが、「知らない人はどこまでも知らない」ということを強調します。

「納得」に至る道は、くどい道である。なんにも知らない男がセーターを編めるようになるためには、やたらの数の「なにを→どうして」が必要になる。そのプロセスのすべてを、「こうですよ」と図解して教えなければ、身体というものは納得してくれない。(102頁)

ここで「身体」が出てきました。橋本治は脳を「哀れな中間管理職」と呼び、その中間管理職に率いられる部下が身体であるとします。この説明も愉快なものです。

私が言いたいのは、「便利な正解の時代」が終わってしまったから、「わからない」という前提に立って自分なりの方法を模索するしかないという、ただそれだけのことである。(226頁)

結論は平凡のようですが、無理に纏めるのはやめておきましょう。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m