林房雄は『天皇の起原』という著書を当ブログで取り上げたことがありますが、こちらは近代史です。タイトルに抵抗を感じましたが、よく読むと面白く、刺激的な良書だと感じました。
三島由紀夫が最後まで逃れられなかったあの「永遠の夏」昭和20年(1945年)8月15日は大東亜戦争(太平洋戦争)だけでなく、幕末の弘化年間(西暦1845~48年)に始まる「東亜百年戦争」の終わりだったと林は論じます。

日清戦争(1894~95年。引用者注)ではたしかに朝鮮、満州まで出撃した。だが、そこで欧州三国強国の干渉を受けて後退せざるを得なかった。・・日露戦争(1904年~05年。引用者注)においても、カラフト島の半分のほかには償金さえも得ることができなかった。得たものはただ、幕末以来日本列島を包囲しつづけた「西洋列強」の鉄環がますます強力になり、ますます狭くしめつけられて行くという「教訓」だけであった。(125頁)

127頁では、日中戦争勃発(1937年)直後の和辻哲郎の言葉が引用されています。

日本は近代の世界文明のなかにあって、きわめて特殊な地位に立った国であり、二十世紀の進行中には、おそかれ早かれ、この特殊な地位にもとづいた日本の悲壮な運命は展開せざるを得ない。あるいは、すでにその展開ははじまっているのかもしれず・・この運命は逃れうるところではない。

129頁では東京裁判(1948年判決)の「驚くべき事態」が説明されます。

東京裁判の被告席には、ニュールンベルグ裁判のナチス被告席とはちがい、「開戦への決断に関する明白な意識を持って」いた者は一人もいなかった。すべて「何となく何者かに押されつつ」(言い換えれば、和辻博士のいう「日本の悲壮な運命」に押されつつ)「ずるずると戦争に突入した」者ばかりであった。まさに「驚くべき事態」である。

この「悲壮な運命」の正体は、被告たちが生まれる前、幕末から始まっていた西洋列強との東亜百年戦争だったというわけです。その中で、日本は1910年に朝鮮を併合して35年間、植民地として支配しました。林は「朝鮮併合の残虐性」を認めます。

私は朝鮮併合を弁護する気持はない。その必要も認めない。朝鮮併合が日本の利益のために行なわれ、それが朝鮮民族に大きな被害を与えたことは誰も否定できない。ただ私は朝鮮併合もまた「日本の反撃」としての「東亜百年戦争」の一環であったことを、くりかえし強調する。(183頁)

満州事変(1931年)、日中戦争も同じ構図です。林は日本の苦悩だけでなく、日本と戦わねばならなかった中国の苦悩を察します。

清朝の悪政と欧米の植民地主義よりの脱出と打倒は孫文以来のシナ・ナショナリスト革命家の念願であり、その故に中国の革命家たちが日本の奮闘に好意と信頼を寄せた一時期はたしかにあったが、「満州建国」と日本軍の中国本土侵入はこの信頼の最後の根を刈りとった形になってしまった。孫文の子弟である蒋介石も毛沢東もアジアの究極の仇敵が西洋列強の植民主義であることはもちろん知っていたが、「聖戦」と称して武力侵入を強行して来た日本に対しては敢然と抗戦するよりほかはない。

そして昭和16年(1941年)12月8日。三島由紀夫も『暁の寺』で書いていますが、林も「十二月八日の感動」を書いています。

開戦の第一報を聞いた時、私は奉天(現在の中国・遼寧省の瀋陽市。当時は満州国。引用者注)にいた。堅い粉雪が降っていた。新京(現在の中国・吉林省の長春市。当時は満州国の首都。引用者注)行の急行列車に間にあうように、旅館を出るその玄関先で聞いたのだと思う。ラジオであったか号外であったかはおぼえていない。
ただひとり洋車にのって奉天駅にいそいだのであるが、頬をうつ雪片も爽快であった。肩を圧していた重荷がふりとばされ、全身の血管に暗く重くよどんでいた何ものかが一瞬に吹きはらわれた気持であった。(338頁)

林は高村光太郎の『十二月八日の記』の一節「頭の中が透きとおるような気がした」「私は不覚にも落涙した」を引用し、次のように解説します。

明治と大正を生きてきた日本人の感慨であり、涙である。高村氏は西洋の文明と文化の価値を知っている詩人である。彫刻家としては間接ながらロダンの弟子である。にもかかわらず、政治的軍事的には、西洋が日本の圧迫者であることを、すべての明治人・大正人とともに知っていた。(340頁)

続いて林は『昭和戦争文学全集』の解説者・奥野健男の文章を引用します。

対中国戦争に対しては、漠然たるうしろめたさを感じていた大衆、侵略戦争としてはっきり批判的だった知識人も、米英に対しての戦争となるとその態度を急変した。・・遂にやった、おごれる米英老大国、白人どもにパンチを加えた、という気も遠くなるような痛快感もあった。(340~341頁)

最後に林の未来への予言(この本が書かれた1965年の時点で)を引用しましょう。

日本をしばりあげている鎖は強力である。この鎖を自ら断ち切る力は、まだ養われていない。今ただちにアジア・アフリカの側に立って戦えと叫ぶことは、日本の亡国を招きよせる暴論となる。私たちに許されていることは、アジアの歴史をふりかえり、世界の歴史の将来を考えて、日本はアジアの一員としてその方向に進むよりほかに道はないと予言することだけである。
・・いつの日か、歴史は「東亜百年戦争」の戦士の息子たちを再び歴史の舞台の正面に呼び出すことであろう。(375頁)

私は2001年(平成13年)の今日、ニューヨークのテロをテレビで知ったとき、1941年12月8日に日本人が感じたのと似た感慨を持ちました。まだ日本は鎖にしばられていますが・・

お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m