以前の投稿で、古文献における倭人の歴史が三千年前の「呉の太伯」まで遡れるだろうという話をしましたが、更に遡ってみましょう。ここまで来ると多少怪しいですが、見方によっては面白いです。
日本には専門家からは白眼視される「古史古伝」があり、その中に「富士古文書」と呼ばれるものがあります。富士山麓の宮下家に保存されていたので「宮下文書」とも呼ばれます。林房雄はこの古文書に興味を抱き、『天皇の起原』で詳しく紹介しています。
富士古文書には明らかに後世の付加と思われる部分がありますが、これは古くから書き写されてきた古文書には避け難いことで、それだけで全体を虚偽と断定することは出来ません。そうかと言って全てを信じられないのも明らかです。大筋は次のようです。
クニノトコタチに始まる天神七代、アマテラスに始まる地神五代の部分は記紀に似ていますが、富士古文書では天神七代の前に「天之世七代」と「天之御中世十五代」があり、これは日本列島でなく大陸の時代とされています。その後、クニノトコタチが日本に渡航し、富士高原に都を置きました。天神七代と地神五代は富士高原の時代です。記紀では地神三代目のニニギが高天ヶ原から九州に降臨し、その曾孫の神武天皇が大和に東征しますが、富士古文書では地神五代と神武天皇の間に、九州に都を置く「ウガヤフキアエズ朝」が51代続いたとされています。君主の称号は「神皇」です。
この「ウガヤフキアエズ朝」の33代目の時、大陸では殷の紂王が周の武王に滅ぼされました。そして紂王の第三子である「対馬王」が臣武丁に守られて対馬に漂着し、殷国の暦を神皇に奉りました。対馬はそれまで「附島(つきしま)」と呼ばれていましたが「対馬」と改められました。
紂王は殷の第30代の王なので、代数から推定するとウガヤフキアエズ朝は殷の前の夏(か)王朝の末頃に始まったと思われます。夏は17代続いた王朝なので、12代前のクニノトコタチは夏王朝の初期に日本列島に来たことになります。大雑把もいいところですが(笑)
ただ、この時期はちょっと面白いです。魏志倭人伝に次のように書かれているからです。

夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚水禽を厭う。

会稽は今の浙江省から江蘇省にかけての地名です。少康は夏の第6代の王で、子の一人をそこに封じ、彼はその土地の風習に従って髪を短く切って体に入れ墨をし、越(えつ)の国の始祖になりました。魏志を編纂した陳寿は倭人の風習が越に似ていると言っているのです。
少康の時代ははっきりしませんが、呉の太伯、殷の紂王、周の武王の時代より千年近く古いと考えられています。少康の祖父が第4代王の中康、その兄が第3代王の太康です。夏の初代の禹王は会稽山に葬られました。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m