「司天台」は野尻抱影のエッセイ集の「11月27日」のタイトルです。唐の白楽天の同名の詩を訓読して引用したもので、「昔の天文台のことを引いて、現在の天文官を諷刺した詩」と注釈されています。

司天台 仰いで視、俯して察す天と人との際(つらなり)。
羲と和と死してより来(このかた)、職事は廃れ 官に賢を求めずして空しく芸(わざ)あるを取る。
昔聞く西漢の元成の間(ころおい) 下は凌ぎ上は替(すた)れて、その責め天に見(あら)わる。・・(後略)

「西漢」は前漢王朝のことで、「元成の間」とは西暦紀元前1世紀の後半に在位した元帝と成帝の時代を指します。「責め」は変換出来ませんでしたが、本来は「滴」のサンズイをゴンベンにした字です。詩はまだ続きますが、「羲と和」は「堯の時代の天文官」と注釈されています。
堯は中国の伝説的な「五帝」の一人で、すぐ後の舜とともに理想的な政治をした聖人なのだそうです。司馬遷の『史記』によると、羲氏と和氏は堯の時代から天文を司りましたが、夏王朝の中康の時代に酒色に溺れて職務を怠り、胤という武将に征伐されてしまいました。
『書経』の「夏書」にはこの事件の詳しい記述があり、羲と和が日食の予報を忘れたために世の中が大騒ぎになったということです。しかし今から四千年近く前に日食の予報が出来たのか疑わしく、現代の天文学者の計算でも該当する日食が見当たりません。政治的な陰謀だったのかもしれません。
面白いことに「羲和」は『山海経(せんがいきょう)』などに伝えられる神話では太陽を生んだ母の名になっており、この羲和は東の海の彼方に住んでいます。まるで日本のイザナミかアマテラスのようです。この「羲和」と天文官の「羲と和」がどう関係するかも面白い問題です。彼らが日食の予報を忘れて引き起こした騒ぎも、アマテラスの「天の岩戸」神話に似ているようにも思えます。
羲和でもう一つ思い出されるのは「義和団」です。義和団は日清戦争の後、中国で外国人を排斥する運動の中心となった団体で、逆にロシアや日本の軍事介入を招き、日露戦争の原因になりました。いろいろ調べてみましたが「羲」と「義」は別の字ですし、この団体が羲和と関係するかどうかも分かりません。何かご存じでしたらご教示下さい。
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2018年10月16日追加
菊地章太『義和団事件風雲録・ぺリオの見た北京』という本によると、義和団の名称は「義和拳」という拳法に由来し、「義気を和合する」という意味だそうです。羲と和、羲和と直接の関係はないようですね。