子供の頃、歴史を学んで不思議に思ったのは、古い時代は理科で習うのに新しい時代は社会科で教えられることでした。生物や地球、さらには宇宙の過去は理科であり、猿人とかアウストラロピテクスとか、人類が出てきたら社会科になるのです。
宇宙タレントの黒田有彩さんも宇宙の始まりに興味があったそうで、大学では重力波について研究されたそうです。

宇宙は138億年前に生まれたと考えられているので、もし138億光年向こうを望遠鏡で見ることができたら、宇宙が生まれたばかりの姿が見えるはず。でも、可視光や電波などの電磁波では、宇宙が生まれて38万年後からしか見ることができないんですよね。(『宇宙女子』110頁)

そこで重力波の観測が重要になるようですが、宇宙に始まりがあったということが、どうも私は感覚的に腑に落ちません。
昔の人々にとっては、歴史は神話につながっていました。たとえば『古事記』の冒頭は次のようです。

天地初めて發(おこ)りし時、高天原に成りし神の名は、天乃御中主神。

『旧約聖書』の『創世記』の冒頭は・・

始めに神が天地を創造された。地は混沌としていた。暗黒が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていたが、神が「光あれよ」と言われると、光が出来た。

これを読むと、天地には始まりがあるが、神は永遠の昔から存在していたように読めます。
司馬遷の『史記』は五帝本紀から始まっており、五帝の最初は黄帝(名は軒轅)ですが、「軒轅之時、神農氏世衰」とあるように、黄帝の前に「神農氏」の時代があったとしていますから、黄帝がすべての始まりというわけではありません。唐の司馬貞が三皇本紀を追加しましたが、最初の伏羲にも母がいます。この『史記』のほうが私としては腑に落ちます。どこまで遡っても、すべての始まりというものは無いのではないか。それなら、すべての終わりというものも無いように思えます。
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