中国の古書に出てくる「倭は自ら太伯の後と云う」という記述について考察しましたが、今日は更に突飛なことを考えてみようと思います。突飛になり過ぎて「あっちの世界」に行かないようにしたいですが・・(もう行ってしまっているかもしれない?)
後世の南宋や日本の儒学者や禅僧は、これを中国の春秋時代の西暦紀元前5世紀に滅亡した呉の太伯と考えたわけですが、実は根本的な疑問があります。まず、どの史書にも「呉の太伯」とは書かれておらず、単に「太伯」としか書いてないこと。もう一つは、呉の太伯には子が無かったと司馬遷の『史記』に明記されているのに「太伯の子孫」はおかしいことです。それで以前の投稿では「倭の太伯」を考えましたが、「太伯」は同音の「太白」と書かれる場合もあります。
「太白」は中国では金星を指します。唐の詩人・李白の母は息子を身ごもったとき、金星を夢に見たので息子の名前を「白」、字(あざな)を「太白」と付けたことは有名な話ですね。
「金」(きん)と言えば、韓国には金という姓が多い。中でも一番多いのは釜山に近い金海を本貫とする「金海金」の人たちです。この金海という場所は歴史的に日本と深い繋がりがあります。日本書紀や三国史記では任那(みまな)加羅(から)または伽耶(かや)と呼ばれ、さらに古く魏志倭人伝などでは「狗邪(くや)韓国」と呼ばれました。
『魏志』というのは正確に言えば『三国志』の『魏書』です。『三国志』は小説やゲームではなく、本来は3世紀、中国の魏・呉・蜀の三国時代が終わった直後、晋の時代に書かれた歴史書です。朝鮮半島の三国時代は中国より遅く、4世紀から7世紀まで高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)が争った時代で、この三国が全て滅びた12世紀の高麗(こうらい)の時代に書かれた史書が『三国史記』で、13世紀に書かれたのが『三国遺事』です。『三国遺事』は伝承史的で日本の『古事記』に近く、『三国史記』は『日本書紀』のようなものです。
『日本書紀』は中国の『春秋』のような編年体の史書ですが、『三国史記』は中国の『史記』のような紀伝体の史書です。従って、三国の歴代の王のことを書いた「本紀」、王以外の重要人物を書いた「列伝」があります。その『三国史記』金ユ信列伝(「ユ」は難しい字です)が今日のテーマに関係します。
金ユ信は新羅の武将で、三国統一戦で大いに活躍した人ですが、もとは新羅人ではありませんでした。かつて「狗邪韓国」と呼ばれた任那、現代の金海にあった「金官加羅国」の王家の子孫です。金官加羅国は532年に新羅に滅ぼされました。その最後の王は新羅に降伏して貴族になり、その曾孫が金ユ信です。この金ユ信の墓碑(現在は残っていないようです)に刻まれた内容が列伝に載っています。
それによると、金ユ信は金官加羅国の初代・首露王の子孫です。これはまあ、予想通りですが、その首露王の先祖をたどると「少昊(しょうこう)」に行き着くと言います。少昊は中国の伝説上の帝王・黄帝(こうてい)の子で、金天氏、または白帝とも言い、金星の化身でもあります。
ここでやっと、繋がりました!「倭は自ら太伯の後と云う」の「太伯」は「太白」則ち金星で、少昊金天氏を指すように思われます。『魏志倭人伝』や『後漢書』によると、狗邪韓国は倭の一国であるように読めますから、「我々は太伯の子孫」と話したのは狗邪韓国人だったかもしれません。筑紫国も『古事記』では「白日別(しらひわけ)」という別名を持っているので、筑紫にも太白信仰があったとも考えられます。東日本に広がる「天白(てんぱく)」信仰も見直す必要がありそうです。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m