私の机上には星座早見盤が置いてあります。天文宇宙検定に合格した時に副賞でもらったものです。アナログに手で動かす原始的なものですが、日時と季節に従って見える星座が分かり、なかなか便利なものです。
稲垣足穂は『横寺日記』の8月21日に、プラネタリウムについて考察するエッセイを書いています。

「プラネタリウムはいつ観ても同じことだ」と云う人がある。天球を模したものである限り、南極の天だって、太古のアッシリヤの夜天だって、ただ星が散らばっているだけの話である。天文書には似たり寄ったりの図解と写真が嵬められ、科学画報は秋毎の天体特集号にいつも同じ記事と挿絵を載せているが、これも本来しかあるべきだ。題目が映画流に着換えられるものならば天球でも何でもなかろう。天文学が魅惑をそそりながら人気がないのはその関係である。然し、人々が追っかけ廻している項目にしたところで同じでないか。たとえば新聞雑誌にしても、そこで何物かが常に変りつつあると思いこまれているまでの話でないか。

私も子供の頃、プラネタリウムに行った時、ここまで言語化は出来ませんでしたが似たようなことを感じました。当時のプラネタリウムはドームの中央に大きく横たわり、まるで蟻の怪物のように見えました。今のプラネタリウムは小さくなって、もちろん投影される星空がよく見えて進歩しているのですが、どこか物足りない気もします。
足穂はエッセイの続きで、さらに重要なことを述べています。

プラネタリウムは現代に於ける最も精巧な玩具の一つだが、幻灯仕掛による錯覚以外に別に天体への繋りは持っていない。人工の丸天井に懸った新月や満月は似て非なるものとさえも云えない。金星及び木星に到っては云うも更なり。若しそれ、「ひじり達にも不可思議を覚えせしむ」銀河に及んでは、その暗示だに不可能である。

人間はただ視覚のみをもって、星空と繋がることが出来ます。触覚、嗅覚は言うまでもなく、聴覚さえも役に立ちません。それを無理に繋げようとするとロケットの助けを借りる他はなく(ロケットに爆弾を載せればミサイルになるわけですが)砂漠に基地を建設し、発射時には恐ろしい騒音と震動を周囲にもたらします。やはり、やり過ぎなのかもしれません。
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