世間から何十年も遅れて村上春樹が気になり始めて、今は『1Q84』を読み始めたところです。この小説はジョージ・オーウェルの『1984年』を下敷きにしており、予備校で数学を教えながら小説を書いている天吾という男と、殺人の仕事をしている青豆という女の話が交互に進みます。青豆の世界ではタクシーでクラシック音楽を聴いたのをきっかけに世界が変わってしまい、1984年から謎の1Q84年に入り込むという設定のようです。
『海辺のカフカ』でも家出をする15歳の少年と、猫と話が出来る老人の話が交互に進みますが、この書き方は三島由紀夫の『鏡子の家』を思い出させます。田中西二郎はこれを「メリ・ゴオ・ラウンド方式」(古めかしい表現です・・)と呼びます。『鏡子の家』では主人公は4人であり、お互いに知り合いなので違いもありますが。

この長編で、たしかに作者は戦後日本の一時期の退廃を描き切った。が、それだけで終わらせずに、一輪の水仙花を点出する鬼工によって、日本的古典主義的唯美主義の直観を読者に垣間みさせている・・

田中氏はこのように評しましたが、村上春樹の場合はどうでしょうか。1989年に昭和が終わり、ドイツの統一やソ連の崩壊が続いた頃、日本もアジアに友人を作り、戦後を終わらせる機会があったように思うのですが、現実は逆に進みました。政治的には一層のアメリカ属国化、文化的には一層の退廃の進行でした。今の安倍政権は、オーウェルの描いたビッグブラザーそっくりになって来ています。
村上春樹は『ノルウェイの森』に見られたような西洋と戦後一辺倒から脱して、アジアや歴史に目を向けるようになっていきますが、彼の文章からは戦後日本が受けた傷跡が深く感じられます。私自身も間違いなくその傷を受けています。日本の中では福島県と沖縄県にその傷が現れており、今後も注視していきたいと思います。
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