前回の投稿で大本さんが下さったコメントに「天職」という言葉がありました。「天職」とは不思議な印象を与える言葉です。文字通りに受け取ると天、あるいは天命によって定められた職業ということです。そうすると、日本国憲法が定める「職業選択の自由」は虚構であることになります。人間の自由意志と運命の問題については、三島由紀夫の『豊饒の海』でも本多繁邦が松枝清顕との会話で論じていました。
孔子は五十にして天命を知ったということですが、私は五十をとうに過ぎても天命が分からないようです。

それにしても、或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるという天賦に恵まれている。俺はこの目でそういう人間を見てきたのだから、信ずるほかはない。何という能力、何という詩、何という至福だろう。登りつめた山巓(さんてん)の白雪の輝きが目に触れたとたんに、そこで時を止めてしまうことができるとは!(『天人五衰』十六)

三島由紀夫は「時を止める」ことに憑かれ、最後は自身もそうしたわけですが、私にはそうした考えはありませんでした。それはショウペンハウエルが述べている通りです。

もしも生命の断末が何かしら純粋に否定的なもの、現存在の突如とした中止のようなものであるとしたら、まだぐずぐずして自分の生命に終止符を打っていないような人間は誰もいなくなることであろう。ところが生命の断末には何かしら積極的なものが含まれている、即ち肉体の破壊である。この肉体の破壊に脅かされて、ひとびとはしりごみするのである。何故なら、肉体は生きんとする意志の現象にほかならないのだから。(『自殺について』斎藤信治訳)

キリスト教は自殺を禁じますが、深沢七郎の『楢山節考』では姥捨て山の話が出てきます。弘法大師空海や多くの仏像を刻んだ円空らの高僧も、最後は「入定(にゅうじょう)」という形で自ら命を断っています。やはり「死」と向き合わなければ、よく生きることも出来ないように思われます。
ショウペンハウエルの同じ著書の次の文章も心に染みます。

人生はどこまでも我々にほどこされる厳格な躾と看なされるべきものである。・・我々は我々自身の死を、希ましい喜ばしい出来事として待ち設けなければならない、大抵の場合そうであるように、恐怖と戦慄を以てではなしに。
幸福な人生などというものは不可能である。人間の到達しうる最高のものは、英雄的な生涯である。そのような英雄的生涯を送る人というのは、何らかの仕方また何らかの事柄において、万人に何らかの意味で役立つようなことのために、異常な困難と戦い、そして最後に勝利をおさめはするが、しかし酬いられるところは少ない乃至全然酬いられることのないような人である。

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