稲垣足穂の『ヰタ・マキニカリス』の末尾に『随筆ヰタ・マキニカリス』があり、これも面白い文章です。三島由紀夫が魅せられた『葉隠』に足穂も引かれていたことが分かります。それは次のような文脈で取り上げられています。

私の場合は、(極く初期の数篇を除いて)依頼原稿などは殆どなかった。武田麟太郎は、「二人の編輯者の好みを知っていたら絶対に大丈夫だ」と云っていたが、私の文学ではそういうわけに行かない。「ついてくるなら拒みません」の一手より他はない。ところが、ついてくるような編輯者がいなかった迄の話である。だから、こちらが自発的(つまり持ち込み)に出て、それが当然返されてきて、あとで多大な改訂を施したというような作の中に、やや見るべきものが挙げられるのである。それは自分のために書いてあるからだ。これは又一族の癖でもある。私の父は一向に家業に身を入れない人だったが、この兄すなわち私の伯父は、ゼニにはならぬ詩文彫刻に一生を棒に振って、片隅で窮死した。その末弟、私の叔父は船づくり(船大工)であったが、やはり金にはならぬ人からの依頼品の製作とか、自分好みの小細工にあけくれて、これも貧乏のまま若死にしている。

どこか私にも似ているようです。私の一族についてはよく分かりませんが、似た人物がいたのかもしれません。ここで足穂は『葉隠』に言及するのです。

鍋島論語の口述者(山本常朝)が、あるいは私の代弁をしてくれるかも知れない。「短い人生を、いやなことばかりして苦しみながら暮すのは愚かなことである。このことは下手に聞かれると害になるから、若い者には絶対に喋られぬ奥の手である。わたしは寝ることが好きなので、分相応にせいぜい引き籠って暮したいものだと思っている」私の伯父や叔父も、彼らの周囲はどう解しているかは知らないが、結局これであったと思う。

三島由紀夫は『葉隠入門』で、この部分にわずかに触れています。自決の後、三島の母は「あの子が好きなことをしたのは今日が初めて」と言ったそうですが、もしそうなら痛ましいことです。
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