澁澤龍彦は『アンドロギュヌスについて』で、生物学と心理学についても解説しています。

まず解剖学の領域からはじめると、男の性的器官と女の性的器官とのあいだには、差異があると同時に、また類似点のあることが発見される。これは少しも驚くべきことではない。フロイトによれば、「解剖学上の半陰陽は、ある程度までは、正常な者にも、まさに存在するのである。正常な発育を遂げている男性でも女性でも、それぞれ異性の器官の痕跡をもつことを見逃すことができないのである。機能を営まずに、痕跡的な器官として残っているにせよ、あるいは他の機能を営むようになって変形せしめられているにせよ、この古くから熟知されている解剖学的事実からは、はじめには両性の素質を受けているのであるが、発育の過程のうちに、男女いずれかの性を示すようになり、他の性のものは萎縮して痕跡になってしまっているという見解が生じてくる。」(『性に関する三つの論文』)
問題は、この「萎縮して痕跡になっている」性、棄て去られた性であろう。これを理解するためには、個体発生の過程を最初の胚の段階にまで遡ってみなければならぬ。
ところで、胚の段階において、性的器官の形成は男女いずれの場合においても、きわめて緩慢であり、性別が生ずるのは、成長の最後の時期においてであることが分る。男性の場合は、一種の生殖器の芽ともいうべきものが発達し、女性の場合は、これが萎縮せしめられたまま残る。そして女性の管道の口は、裂けたままの状態にとどまるのに対し、男性のそれは接着するのである。

こうして男性は陰茎(ペニス)と縦に縫い目がある陰嚢を持ち、女性は陰核(クリトリス)と左右に裂けた大陰唇を持つことになります。澁澤は次のように結論します。

最も男性的な男の内部に潜在している少数の女性的因子を、ユングが「アニマ」と名付けたのは正しかった。男性が必らずしも百パーセント完全に男性であるわけではなく、また女性も百パーセント女性であるわけではない。一人の人間のなかに、男性的性格特性と女性的性格特性はつねに見出される。この意味からして、アンドロギュヌスの神話は、生物学の領域においても、空想的なテーマどころではなく、深い真実を示すものだったと言えよう。

私は半陰陽ではなく「正常」な男性ですが、私が人生でトラブルを起こす相手は「男」を強調する暴力的な男性が多かったと思います。父がそうでしたし、学生寮の先輩も、自動車学校の教官もそうでした。この地方は「軍隊、警察、運動部」の雰囲気が強く、そういう男性が多いようです。しかし父は年を取るとすぐ泣くようになりました。稲垣足穂が『少年愛の美学』で書いたように「ちょうど棘だらけのシャボテンの中身がベトベトのジェリーであるように、師父的な、いかめしい存在であればある程、その内容は柔軟無類だと見なしてよい」のではないのでしょうか。三島由紀夫は少年時代の反動で、過度に男性的な方向に走ってしまったのかもしれません。
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