泉鏡花の『草迷宮』を私は読んでいないのですが、澁澤龍彦が『ランプの廻転』というエッセイで紹介しています。このブログでも取り上げましたが、澁澤は三島由紀夫が『小説とは何か』で柳田国男の『遠野物語』で炭取が回転する場面を取り上げたことに注目し、「『遠野物語』にふくまれる百余篇の物語のなかから、くるくると廻る炭取などといった、子供っぽい奇妙なオブジェをえらび出し、これを象徴的な価値にまで高めなければ気がすまなかったところに、私は、いかにも三島由紀夫らしい、小説家としての好ましい資質を認めないわけにはいかないのである」と書きました。澁澤は『遠野物語』より前に書かれた泉鏡花の『草迷宮』でも、妖怪の存在を認知するための指標として洋灯(ランプ)の回転が利用されていることを明らかにしています。次の文章も注目されます。

『草迷宮』における化けもの屋敷の叙述には(中略)稲垣足穂が短篇『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』を書くための粉本とした、平田篤胤の聞書『稲生物怪録』に出てくる化けもの屋敷の描写のディテールにぴったり符合する部分がいくつかあり、明らかに鏡花はこれを参考にして書いたと思われる(後略)

澁澤は『草迷宮』のあらすじを説明し、「この小説では、三つの時間が三重構造になって」いるとしてギリシャの迷宮神話との比較を試みます。

第一の時間も、第二の時間も、すべて迷宮の中心たる第三の時間に向って収斂するのである。いずれの時間にも美女が介在したが、これらすべては同じ女の転身のすがたにほかならなかったのである。第三の時間の支配する秋谷屋敷は、何なら魔圏だといってもよかろう。迷宮のアナロジーでいえば、ここにミノタウロスが棲んでいるのだ。そして、たしかにミノタウロスは棲んでいたし、アリアドネーは糸玉ならぬ手毬をもって、若いテーセウスたる明をここへ導いたのであった。
(中略)
ただ、この明というテーセウスは奇妙なテーセウスで、甘んじて試練を受けたはよいが、ミノタウロスを殺そうともせず、アリアドネーと手をたずさえてナクソス島へ遁走しようともしない。あろうことか、幕切れには眠りこんでしまうので、そもそも迷宮から脱出する意志がまるでないのである。旅人が脱出することを欲しない迷宮。これがおそらく、鏡花のつくりあげた迷宮の、その他多くのそれと決定的に異った一点であろう。

確かに奇妙な迷宮ですね。しかし澁澤は「鏡花が一般のやり方とは逆のやり方で、無意識に彼自身の超越を実現していたような気がしてならない」と言います。

退行の夢とは、いわば出口なき迷宮であろう。手毬唄を求めて日本全国を放浪しても、秋谷屋敷の魑魅魍魎の総攻撃を受けても、明の側に、一人前の大人になろうという意欲が根っから欠けている以上、それは結局のところ、永遠の堂々めぐりに終るしかないらしいのだ。ヨーロッパの聖杯伝説の系統をひくロマン主義小説の主人公ならば、たとえば『青い花』に象徴されるような、何らかの形而上学的な観念を求める旅の果てに、ついに新しい人間(ブリヨンのいうような)として生まれ変るというようなこともあり得ようが、鏡花の小説の主人公の場合、そういうことは決して起らない。だから、よくいわれるように、鏡花には超越への志向が欠けているというのも、あるいは一面の真実であるかもしれない。ただ、私には、鏡花が一般のやり方とは逆のやり方で、無意識に彼自身の超越を実現していたような気がしてならないのである。

これだけ読むと「奇矯な言辞を弄する」ようですが、澁澤はヒント?らしきものも提示しています。

この永遠の不毛な彷徨を、いつ終るともなき豊かな体験に一変させる方途はないものであろうか。おそらく、たった一つだけあるのだ。しかし、これも望んで手に入れられるというような種類のものではない。それは何かというと、少なくとも生涯に一度、(たぶん大人になる前)迷宮の中心の部屋に到達したことがあるという、何物によっても揺るがされることのない確信である。十歳で生母を失ってから、鏡花はこの確信だけで生きてきたといっても過言ではないであろう。

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