これは中沢新一のエッセイ集『野ウサギの走り』に収められたエッセイの一つです。中沢はバリ島の画家が描くジャングルの絵を見て、そこに遠近法が取り入れられていないことを不思議に思いました。バワというバリ島のガイドが次のように答えました。

遠近法は見えないものを見えるようにし、感覚がつかんでいるものを頭で理解できるものにつくりかえてしまうからです。そんなことをしたら、ジャングルはたちまち破壊されてしまいます。あの優しい力は消え去ってしまいます。そうなったとき、ジャングルの怒りが爆発するのです。報復がはじまるのです。ジャングルは恐ろしい破壊力で、遠近法をたたきこわしにやってきます。
(中略)
ジャングルに手前と奥のほうとの距離ができて、そこがよく見とおせるようになると同じようにして、自分と他人というはっきりした意識ができあがって、その距離の感覚にもとづいて人間関係とか社会ができてくる。そういうものができあがってジャングルが破壊されたことにたいして、ジャングルの力、見えない力がブラック・マジックで報復してくるんです。

中沢はバワの言葉を聞いて、ジョルジュ・バタイユならどう言っただろうかと考えました。

「私は同じことを供犠ということをとおして考えていた」。『宗教の理論』(人文書院刊)を書いていたジョルジュ・バタイユなら、たぶんこう言ったはずだ。その本のなかでバタイユは宗教の奥底にまでおりたっていこうとした。それをおこなうために、彼は人間の自己意識ができあがってくる、もっともプライマルな地点に目をそそぐことからはじめたのである。
(中略)
彼は動物の意識を「水の中に水がある」ような状態として描いている。それはちょうど薄暗いジャングルのなかの意識とよく似ている。
(中略)
人間は人間になるために、まわりの世界とのあいだに亀裂をいれる必要があったのだ。けれど、それとひきかえに深々とした連続の意識とか、共生状態の優しさとかを、失なわなければならなかったわけである。ジャングルは遠近法によって徹底的につくりかえられ、徹底的に去勢されてしまった。
そういう人間がもしも、かつてジャングルにあったような至高の連続性をとりもどしたいと欲望するとき、供犠がおこなわれるようになる、とバタイユは考えるのである。

バタイユの言う「人間」は広義には「動物」と置き換えるべきかもしれません。動物の「動」は運動神経の「動」です。自と他を区別する意識は脳・神経系と関連し、海綿(スポンジ)を除く動物はすべて神経系を持ち、知覚神経で五感を覚え、脳で思考し、運動神経で行動します。知覚と思考は外から見えず、運動だけが他者から見えます。クラゲやイソギンチャクは立派な脳はありませんが、神経はあります。
三島由紀夫の『鏡子の家』で夏雄を襲った富士樹海の消滅も、ジャングルの報復とも見られます。夏雄は回復しますが、三島は自らを供犠に差し出してしまったのでしょうか。
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