昨日から7年ぶりに働き始めました。まだ研修の2日目が終わったばかりですが、予想に反して長続きしそうな気がします。
三島由紀夫の『鏡子の家』では最後の章で夏雄が鏡子を訪ね、夫の帰宅で「鏡子の家」が終わることを告げられますが、このときの鏡子の言葉が私の心境に近いかもしれません。

人生という邪教、それは飛切りの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。生きようとしないで生きること、現在という首なしの馬にまたがって走ること、そんなことは怖ろしいことのように思えたけれど、邪教を信じてみればわけもないのよ。単調さが怖かったり、退屈が怖かったりしたのも病気だったのね。くりかえし、単調、退屈、そういうものはどんな冒険よりも、永い時間酔わせてくれるお酒だわ。もう目をさまさなければいいんです。できるだけ永く酔えることが第一。そうすればお酒の銘柄なんぞに文句を言うことがあって?

最後に夫が帰ってきますが、夫は描かれず、「七疋のシェパアドとグレートデン」が入ってくるところで小説は終わります。この言葉が少し気になりました。シェパードとグレートデンが合わせて七疋なら、それぞれ何疋いるのでしょうか。それともシェパードが七疋で、グレートデンは一疋、合わせて八疋でしょうか。第一章にも全く同じ表現が出てきます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m