2017年06月

昨日のチームぼそっとさんのコメントにもありましたが、三島由紀夫は友人の坊城俊民氏に「五十になったら、定家を書こうと思います」と言っていました。三島はさらに続けて「定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います」と言いました。
これについて小室直樹氏は『三島由紀夫と「天皇」』で、能の「定家」と関連させて次のように解説しています。
「仮面劇の能だが、仮面をつけるのがシテ(主役)である。シテは、神もしくは亡霊である。(中略)現代では、生の世界と死の世界は、隔絶したものにとらえられている。だが、かつて(中世)は、死者は生の世界にも立ち入っていた」
神と言ってもキリスト教のGodではなく、あくまで日本的なカミのようです。
三島は「みずから神になった」定家を書くことなく、みずから神になることを選んでしまいました。
小室氏は「何が目的で三島は死の世界を選んだのだろうか」と問い、「より深い行動の意味は、さらに別にある。残念ながら、歯切れ悪くならざるを得ない理由があって具体的に示せない」と思わせ振りに書いていますが、今となっては分かりません。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m
明日は更新をお休みさせていただきます。

三島由紀夫の短編小説『花山院』は、平安時代の寛和2年6月22日(西暦986年7月31日)の夜半を過ぎた丑の時、つまり23日の早暁に起こった「花山天皇退位事件」を扱った小説です。藤原兼家・道兼父子が天皇を騙して出家させ、兼家の外孫である皇太子を即位させようという陰謀でした。
天皇は道兼に簡単に騙され、二人で寺に向かいますが、途中で陰陽師・安倍晴明の家の前を通ると、中から晴明の声が聞こえました。
「御退位を知らす天変があったが、はやそうあったと見えるわい。参内するぞ」
この天変について、古天文学者の斉藤国治氏が『星の古記録』で考察しています。計算の結果、この夜に木星が天秤座のアルファ星の北方0.5度に接近していたことが分かりました。木星は12年かかって天を一周するので歳星とも言い、国家や帝王を代表する星とされていました。天秤座は中国の星座(星宿という)でテイ(「低」のにんべんを除いた字)宿と言い、二十八宿の一つで昔は秋分点があった重要な星座です。安倍晴明はこの現象を観察していたと考えられます。
しかし、天皇と道兼が既に通り過ぎたと知った晴明は、参内を諦めました。
「お健やかに!陛下。上皇としての御半生のほうが、前の御半生よりもはるかに安らかな愉しい月日となりますように」
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

昨日は20歳で死んだフランスの小説家ラディゲを取り上げましたが、フランスには20歳で死んだ数学者エバリスト・ガロアがいます。三島由紀夫は恐らく知らなかったと思いますが、私はどうしても三島とガロアの生涯を重ねて見てしまいます。
ガロアは1811年から1832年まで生きた人で、生前は数学者より革命家として知られており、逮捕や投獄もされました。しかし数学にも非凡の才能を発揮し、「群論」「体論」と呼ばれる革命的な理論を生み出しました。
2次方程式の解の公式は誰でもご存知でしょうが、4次方程式までは解の公式があります。(とても複雑ですが)しかし5次以上の方程式は、代数的な解の公式は存在しません。これはガロアより少し早く、27歳で病死したノルウェーの数学者アーベルが証明しましたが、ガロアはどんな方程式が代数的に解けるかの判定法を見出しました。
ガロアは決闘で殺される前夜、最後の数学論文を書き上げます。まるで『豊饒の海』を書き上げて市ヶ谷に向かった三島のようです。決闘の理由は恋人をめぐるいざこざとも、政治的な陰謀とも言われます。竹内淳氏が『高校数学でわかるフーリエ変換』で述べているように「ガロアは偉大な業績と、おそらく永遠に解けない彼自身の死の謎を残して」この世を去りました。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

三島由紀夫は1953年に『ラディゲの死』という短編を書いています。レイモン・ラディゲは1923年に20歳で死んだフランスの小説家ですが、三島は堀口大學が訳したラディゲの小説を愛読したようです。
ジャン・コクトーはラディゲが発病したとき、こう言います。
「二十歳で君が『舞踏会』を書いたということは(中略)生命へのおそろしい反逆でもあるんだよ」
三島にとっては『豊饒の海』が『ドルジェル伯の舞踏会』だったのでしょうか。
三島は『天人五衰』を書いた後、『奔馬』の飯沼勲のように自決しました。しかし『暁の寺』こそが運命の作品だったように思われます。
コクトーはラディゲにこうも言いました。
「君は二十歳で『舞踏会』を書いたことでこの平衡を破った。(中略)しかも『舞踏会』それ自体が、完全な平衡を保った作品だということは何たる皮肉だ」
なお『ラディゲの死』の冒頭には次のように書かれています。
「これは、真らしいいつわりの自伝である。レイモン・ラディゲ」
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

『仮面の告白』の後半で、作者の三島由紀夫と思われる「私」は草野園子への感情を周囲に誤解され、結婚の意志を確認されるに及んで、「婉曲な拒絶の手紙」を書きます。手紙を出す手は慄えていました。
すでに終戦(敗戦)が迫っていた時期で、東京への空襲は一段落し、アメリカ軍の空襲目標は地方の中小都市に移っていました。そんな中で「私」は考えます。
「戦争が勝とうと負けようと、そんなことは私にはどうでもよかったのだ。私はただ生れ変りたかったのだ」
「生れ変りたかった」には傍点が付されています。
『豊饒の海』と違って『仮面の告白』には仏教や輪廻転生についての詳しい説明はありません。この箇所も普通に読めば、心を入れ換えて別人のようになるといった、ありきたりの意味のようにも取れます。
しかし「私」は二十歳で死ぬこと、病気か戦争が自分を殺してくれることを願っていたようでもあります。それと考え合わせると、この「生れ変りたかった」は文字通り死ぬことを意味していたのかもしれません。
この頃すでに、輪廻転生はおぼろげながら三島の頭の中にあり、やがて『豊饒の海』に結実していったのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

↑このページのトップヘ