2017年06月

『春の雪』七に、房子という女性が登場します。本多繁邦の又従兄妹です。
繁邦の祖母の十年忌の法要の帰りに、親戚たちが本多家に立ち寄ります。どの部屋も本ばかりなのに彼らは呆れますが、数人が繁邦の書斎に入って机辺をかき回したあと、房子と繁邦だけが残されます。
「疲れた。ねえ、疲れない、繁兄さま?」と言って、房子は繁邦の膝に顔を伏せました。繁邦は困惑しますが、そこに母と伯父伯母が入ってきて、房子は顔をあげました。
房子は二度と繁邦の前に現れませんが、繁邦はいつまでも「熱い重い時間」のことを覚えていました。
房子の名前だけは『春の雪』でもう一度だけ現れます。繁邦が清顕と聡子の鎌倉での逢い引きを助けるため、友人の五井の自動車を借りるとき、繁邦は自分の逢い引きだと嘘をつきます。「彼女の名前ぐらい言ってもいいじゃないか」と五井に言われて繁邦は「房子だ」と答えます。おかげで繁邦は車内で聡子を「房子さん」と呼ぶはめになります。
三島由紀夫の別の小説『仮面の告白』で、「私」の又従姉の「澄子」という女性が出てきます。「疲れなくて?公ちゃん」と「私」の腿の上に顔を落とすのですが、「私」は「自分の腿の上にしばし存在した贅沢な重み」をいつまでも覚えていました。明らかな共通性がありますね。
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『天人五衰』で本多透は自殺未遂の前に、養父から借りた松枝清顕の夢日記を燃やしてしまいます。理由を訊かれると「僕は夢を見たことがなかったからです」と答えます。
これは禅問答のようで理解しかねる理由です。何か手掛かりになるものはないかと考えると、『暁の寺』第二部で今西康が「柘榴の国」について説明する言葉がそれに当たるかもしれません。
柘榴の国では美しい児は女も男も子供のときから隔離され、年ごろになると殺されてしまうと今西は言います。「なぜ殺さなければなりませんの」と問われると、答はこうでした。
「生きているものにはすぐ飽きるからです」
これも禅問答のようですが、今西は透と違って長々と自説を述べて、最後に次のように言います。
「殺人というと角が立つが、殺人はひとえにこの記憶の純粋化のため、記憶をもっとも濃密な要素に蒸溜するための必須の手続なんです」
これは清顕・勲・月光姫が若くして死ななければならなかった理由にもなりそうです。
本多繁邦は透の自殺未遂と失明の後、今西を思い出します。「火中に死んだ今西は、いかにも彼らしい軽薄な流儀を以て」「皮相ながら」何かに気づいていました。今西は夢日記が燃やされるように亡くなりました。
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『春の雪』で松枝清顕は、綾倉聡子の手紙を燃やしたり破ったりします。それは聡子に嘘の手紙を出したことを清顕が後悔して、聡子に手紙を読まないで燃やしてくれと電話で頼んだのに、聡子がその手紙を読んだことを知ったからでした。
聡子から来た部厚い手紙を、清顕は書生の飯沼の前で「火鉢で火にくべ」ました。その後、聡子と洞院宮治典王との縁談が進みます。聡子はまた手紙を出しますが、清顕は今度は執事の山田の前でその手紙を「千々に引き破いてみせて、それを捨てるように命じ」ました。
縁談に勅許が下りた後、清顕は聡子に恋するようになり、女中の蓼科を脅します。それは『前には破いてくれとたのんだ手紙を読まれてしまったのだから、今度は逆に(中略)あの粉々に引き裂いた手紙を活かせばいいのだ』と思ったからでした。
ここで清顕は思い違いをしています。清顕は聡子に手紙を「火中」してくれと言っており、破いてくれとは言っていません。火にくべた手紙は勅許を願い出る前の手紙なので脅迫の材料になりません。
これは三島の思い違いなのか、何かしらの意味があるのか、少し気になるところです。
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1970年11月12日から池袋の東武百貨店で開かれた三島由紀夫展では、三島は自分の生涯を「書物の河」「舞台の河」「肉体の河」「行動の河」の四つの河に分類して展示していました。この四つの河はわずか二週間後の25日「豊饒の海」に流れ込みました。
これを『豊饒の海』という小説に当てはめると、飯沼勲が「行動の河」を体現していることは明らかです。
(二代目)月光姫が「肉体の河」であることも確かです。三島は男性の肉体により魅せられていましたが。
「書物の河」は一見分かりにくいですが、本多繁邦は松枝清顕に「貴様は万巻の書を読み疲れたような顔をしている」と言います。清顕は本はあまり読みませんが、よく夢を見るからです。本当に万巻の書を読むのは本多です(苗字の通り)。
『豊饒の海』には能や歌舞伎がよく登場します。安永透は舞台をオペラグラスで覗く観客のようです。
ちなみに『鏡子の家』では、俳優の収がボディビルに凝ったりもしますが、夏雄は書物ならぬ絵、収は舞台、峻吉は肉体、清一郎は行動ということになりそうです。
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明日は更新をお休みさせていただきます。

チームぼそっとさんがコメントされた『鏡子の家』まだ第一部しか読んでいませんが、面白い小説です。
『豊饒の海』では本多という副主人公と並んで清顕・勲・月光姫・透という4人の転生者が主人公になりますが、『鏡子の家』では鏡子のまわりに集まる清一郎(サラリーマン)峻吉(拳闘家)夏雄(画家)収(俳優)という4人の人生が描かれます。時代は朝鮮戦争後、『豊饒の海』で言えば『暁の寺』第二部の数年後が舞台です。
ぼそっとさんは夏雄と鬼頭槇子のつながりを言われましたが、私は夏雄と安永透が似ているように感じました。夏雄は幼い頃から自分を「天使」であると考えており、自分を悪魔と見なす透と逆のようで似ています。
『天人五衰』の透は絵を描くことはありませんが、本多繁邦から「イタリア美術では何が好きかね」と問われて「マンテーニヤです」と答えています。繁邦は「相手はおそらく名前も知らないから、そう答えただけで不快な印象を与える」と注意します。透は美術に詳しいことが分かります。私もマンテーニヤは知らなかったので検索してみましたが、イタリアのルネッサンスでも異色の画家とされているようです。
『鏡子の家』は第二部でさらに面白くなりそうで楽しみです。
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