2017年09月

この章では、三島は自分の過去の失敗を二つ挙げています。初めは学習院時代、「先輩の偉大なる大貴族」たちと会食したとき、緊張のあまり手がすべって、カツレツをお皿の外に飛び出させてしまったこと。二度目は銀座の和光の前で、クサリを飛び越そうとして足を引っかけて転倒してしまったこと。三島はどちらの失敗もすばやく復元し、人の笑う声を聞きませんでしたが、三島は後悔します。
「ふとした失敗で、人の退屈を救うということほど、人生に対する大きな寄与はないのであって、しかもそれによって、われわれは沢山の人間の、純真な、無邪気な、美しい笑顔を見ることができるのであります」
「ギリシアの喜劇、アリストファネスの「雲」では、ソクラテスがめちゃくちゃに戯画化されているが、ソクラテス自身も多分観衆の間にまじって、自分の漫画が舞台の上に動いているのを、ゲラゲラ笑いながら見ていたらしい」
「この世の中では、他人から見て、可笑しくないほど深刻なことは、あんまりないと考えてよろしい。人の自殺だって、大笑いのタネになる。荷風先生の三千万円かかえての野垂れ死だって、十分、他人にはユーモラスである」
こうして表題の「人の失敗を笑うべし」となるわけですが、私は三島の自殺を笑う気になれません。私はまだ人間が出来ていないようです。
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明日は更新をお休みさせていただきます。

「私がここで言いたいのは、「ワイセツとは何ぞや?」ということで、実は私は、今回の講座を、一般読者よりも取締当局に読んでほしいと思っている」
私は取締当局ではないが、興味深いので読んでみました。
三島によると、「ワイセツについてもっとも明快正確な定義を下しているのは、ジャン・P・サルトル先生」とのことです。サルトルは「品のよさ」と「品のないもの」を分け、ワイセツを後者に分類します。
たとえば自由に踊っているバレリーナの身体はワイセツではありませんが、舞台に転倒したバレリーナのむきだしになったお尻に、突然ワイセツがあらわれる、という例が挙げられています。
「もっと常識的に言えば、相手の人格をみとめた上での性欲はワイセツではなく、人格から分離した事物としての肉体だけに対する性欲がワイセツだということである。ですからワイセツは観念的であり、非ワイセツは行動的である」ここまで言われると、何となく分かる気がします。性欲がワイセツではなく、品のない性欲がワイセツというわけです。
「サルトルは、ワイセツなものを、一つの本当に熱烈な性的感動を起させない、或る衰弱したもの、無気力なもの、と見ているのです」なるほど。
「文明の栄えるところ、必ずワイセツが伴って来ました」
「ワイセツとは(中略)文明病の別名になったのであります」ワイセツは現代人の不幸かもしれません。
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この章は「このごろでは小説家という人種は、ばかにエライものになりました」という文で始まります。「そこで私は小説家を尊敬するという病的心理を一つ一つ解明して行きたいと思います」と、三島は5人の女性の意見を並べます。
A子曰く、「だって小説家は野球選手や映画俳優とちがって、外国語もできるし、学問もあるんですもの。学者として尊敬できますわ」
B子曰く、「でも少なくとも小説家は知識人として尊敬できますわ」
C子曰く、「でも小説家は少なくとも人格者として尊敬できるんじゃないでしょうか」
D子曰く、「でも、小説家はみんな人生経験が豊富でしょう。だから未経験な私たちに人生の指標を与える人、人生相談の先生として、尊敬できる筈ですわ」
この4人への三島の回答は「へえ、そんなもんですかね(以下省略。以下同様)」「あんたは何の根拠があってそんなことを言うんです」「とんでもないまちがいです」「あんたもバカだね」と散々です。ところがE子は違います。
「私、小説家を才能の持主として尊敬するわ」
「それはあなたの勝手です。ギャアギャア啼きわめくけばけばしい羽色のオームを尊敬するのは、全くあなたの趣味の問題で、私の知ったことじゃありませんからね」
これを読むと、三島もバカではなかったように思えてきます。
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この章もなかなか通快です。
「バカという病気の厄介なところは、人間の知能と関係があるようでありながら、一概にそうともいいきれぬ点であります。いくら大学の金時計組でも、生れついたバカはバカであって、これも死ななきゃ治らない。秀才バカというやつは、バカ病の中でも最も難症で、しかも世間にめずらしくありません」
そして三島は「謙遜バカ」「ヒューマニスト・バカ」「自慢バカ」「三枚目バカ」「薬バカ」を列挙し、「文明の進化と共にバカ菌にはますます新種がふえるばかりです」と述べた上で「テレビ・バカ」「週刊雑誌バカ」「南極犬バカ」「あやかりバカ」を挙げます。現代でもパソコン・バカ、ケータイ・バカ、スマホ・バカ、ブログ・バカなどが出現しています。
最後の部分では、先年の皇太子御結婚パレードの沿道に並んだ中年のオヤジさんとテレビのアナウンサーのやりとりを記しています。このオヤジさん、「わしはテレビはきらいじゃ」と言うので「ハハア、なぜおきらいなんです」とアナウンサーがきくと「自分の目で見たほうがたしかだからな」と答えます。「それじゃ御自分の目でこれからたしかに御覧になることを、お宅へかえってから奥さんに話しておきかせになるわけですね」「イヤ、別に話してきかせません」三島は「このオヤジさんは賢者なるかな」と感じ入ったそうですが、私は賢さが分かりません。どうやら私もバカのようです。
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この章の冒頭で三島は「第二の記憶」という「ふしぎな本」を挙げ、アメリカの平凡な実業家が催眠術に親しみ、友人の細君にこれをかけて、19世紀初頭のアイルランドの小さな町に住んでいた前世の記憶へ辿り着かせた。もしこれが本当だとすると、催眠術という科学的方法を用いて、仏教の輪廻説を実証することになると書いています。ここにも三島の輪廻への関心が読み取れます。
三島が書いているように、現代は「催眠術の時代」です。
「きけば、このごろはテレビに「見えない広告」を入れるという技術ができたらしい。人の目に見えぬ程度の速度で、何度も何度も、「三島石鹸をぜひ!」「三島印チョコレートほどおいしいものはありません!」というような文字を流すと、一生けんめい野球のナイターを見ている人の頭の片隅に、しらずしらずの間に、「三島石鹸」や「三島印チョコレート」が刻み込まれ、さて明る日荒物屋や菓子屋の前をとおったときに、思わず足が立止って、「あのう、三島石鹸ほしいんですけど」と言ってしまうのだそうであります」
こうしたマスコミの洗脳はナチスなどと違って、選択の自由があるように偽装する分、始末が悪い。現代は三島の時代より、もっと悪化しているでしょうね。
三島は最後に「ネコはおそらくもっとも催眠術をかけにくい動物でしょう。そこで私もネコにならって、出来るかぎり冷淡薄情、無関心、自主独立、しかもお魚にありつくためだけに、可愛らしい声でニャアニャア啼いていることにしたいと思います」と結ぶのですが、もちろん三島はそんなことはしませんでした。
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