2017年09月

このタイトルは「人のふり見てわがふり直せ」をもじったものですが、三島はこの格言を皮肉たっぷりに解説します。
「この格言のできた時代は、よほど安定した世の中であって、今はこんな格言のずっと先まで突っ走ってしまっている・・「人のふり見てわがふり直すな」と訂正すると、これは正にモダンな格言になる。「あの人があれだけの恰好をするんだから、私だってこれぐらい平気だわ」というのがこのモダン格言の精神です」
また三島は「コクトオが書いているフランスの中学校の寄宿舎の話」によると、先生が友だちの我儘を訴えた生徒たちに「あなた方は自分たちの問題を自分たちで処理する習慣をつけなければいけません」と言ったところ、あくる朝、その我儘な生徒が縛り首にされている死体が発見されたという話を取り上げます。そして先生がそのとき「けしからんね。その子をみんなで縛り首にしてみなさい」と言ったらどうだったろうか、と問います。
三島の答えは「おそらく子供たちは、そこで自分の「悪」の能力の限界を発見して、その自覚から、子供なりの理性に目ざめて、そんなことはできないだろう」というものです。
私は子供によって必要な対処は違うだろうと思います。先生が言った言葉は表面的には正しく、三島が仮想するのはとんでもない言葉ですが、そういう対処が有効な場合もあるように思われます。
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この章は有名な「ワシントンと桜の木」の話から始まります。
「ワシントンと桜の木の話は、諸君もよく御存じと思う。ワシントンが子供のとき、桜の木を伐ってしまって、大いに怒ったお父さんに、「伐ったのは私です」と正直に白状したおかげで、かえってほめられたというお話です」
この話はテレビなどでも「実は嘘だった」と取り上げられることが多いので、今は信じている人は少ないと思いますが、三島も「どうもこれはあんまりうまくできたお話で、こんなにいい父親を持ったワシントンのほうが、よほどまぐれ当り的幸運児であったように思う」と続けます。
また三島は、柳田国男の「不幸なる芸術」からの引用を載せています。
「ウソが本来はどれほど無邪気なものであったかは、子供を実験していると自然にこれを認めることが出来ると思う。ウソをつき得る小児は感受性の比較的鋭い、しかも余裕があって外に働きかけるだけの活力をもった者に限るらしいから、一つの学級でも一人有ったり無かったりするほどに稀である」
「ウソと三島文学」も深いテーマですが、杉本大一郎『宇宙の終焉』(ブルーバックス、1978年)は「科学とウソ」についての格言を載せています。これは物理学者・早川幸男の言葉だそうです。
「一年間保つウソは(問題点のありかをはっきりさせたという意味で)役に立つ。
数年間保つウソは(学問の一つの発展段階として)現実の大切な一面を捉えている。
10年間保つウソは(科学における基本的問題を指摘しているので)科学の新しい分野を拓く」
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この章の冒頭では、1863年9月27日のゴンクールの日記が引用されています。その前日に死んだアルフレッド・ド・ヴィニイについて、大批評家サント・ブーヴは晩餐会で忌憚なく喋りまくったと言うのです。
「サント・ブゥヴがぽつりぽつりと死人に関する話をするのを聞いていると、私は蟻が死体を喰い荒しているのを見ているような気がする。彼は十分間の裡に名誉の衣を一掃して、此の著名な紳士をすっかり骸骨だけにしてしまった」
三島が次に挙げるのは小林秀雄の言葉です。
「生きている人間は、みんな人間の形をしていない。死んだ人間は、ちゃんと人間の形をしている」
世間はなかなかこうは行かず、生きているうちはさんざん悪口を言い、死ぬと途端に「あんな偉い人はいなかった」などと言う。それはなぜか。
「われわれは死者のことをなるたけ早く忘れたいのです。・・そのためにはほめるに限る。ですから死者に対する賞讃には、何か冷酷な非人間的なものがあります。・・私は死んだら、私の敵が集まって呑んでいる席へ行って、みんなの会話をききたいと思う」
いろんなことを言っている連中の頭を、幽霊の私はやさしく撫でてやるでしょう、とまで言われると、引いてしまうところもありますが。
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「私は大体約束をよく守るタチですが、それをあんまり自慢できることとも思っていません。約束にキチンキチンとしばられるなどということは、人物の器量の小さい証拠で、社会の一歯車にすぎない証拠ともいえます」
このように『約束を守るなかれ』は始まっています。『美しい星』にも人間の美点の一つとして「彼らは約束の時間にしばしば遅れた」というのが挙げられていますが、三島自身はストイックなほど時間をよく守る人だったと言われています。
この矛盾については、次の説明が当てはまりそうです。
「大銀行が約束を破れば、取付さわぎになって、経済は混乱するし、又一方、室町時代の徳政令のように、政府が「借金棒引」のお布令を出せば、政府は一文も出さずに人民の信望をかち得ます。つまり「約束を守る」ということは、社会がしょっちゅう気をつけている健康な状態のことで、「約束を破る」ことは、社会がいっちかばっちかのとき使う毒性の強い劇薬のようなものです。このごろの政府のように、しょっちゅう公約を破ってばかりいては、いざという時キキメがありません」
三島は市ヶ谷の最期のとき、『豊饒の海』の完成を除いて全ての約束を破ってしまいました。まさに「いざという時」だったのでしょう。
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三島由紀夫は或る年の六月、歌舞伎座の楽屋の廊下で、さる女形をつかまえてこう言いました。
「いよいよ君のシーズンが来たな」
その「しじゅうメソメソしている純情型の女形」は「何ですか、先生、梅雨のことですか」と答えたので、三島が「イヤ、お化けのシーズンだよ」と言うと、「大男の女形は烈火の如く怒って、そのものすごい腕力で私の背中を叩き」三島は「二、三日は背骨が痛かった」そうです。
三島はこの回で「空飛ぶ円盤」にも言及しています。
「「空飛ぶ円盤」についての科学者の態度は、私にはズルイとしか思えません。ところで私は、石原慎太郎氏や黛敏郎氏と共に、「空飛ぶ円盤研究会」の会員であって、去年の夏などは・・いつまでたってもあらわれぬ円盤にひたすら憧れつつ、何時間も双眼鏡を目にあてていたほどのマニヤであります
ここに出てくる名前にも驚かされますが、三島はすぐ後で「空飛ぶ円盤を怪力乱神の一種に数えては、まじめな会員諸氏に怒られそうです」と続けているので、まじめな会員では無かったのでしょう。すでに『美しい星』の原案を考えていたのかもしれません。
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