2017年10月

三島由紀夫は自決の前年、雑誌『群像』に『日本文学小史』を発表しましたが、第二章「古事記」に次のように書いています。
「今もなお、私は「古事記」を、晴朗な無邪気な神話として読むことはできない。(中略)戦時中の教育を以てしても、儒教道徳を背景にした教育勅語の精神と、古事記の精神とのあいだには、のりこえがたい亀裂が露呈されていた」
「戦時中の検閲が、「源氏物語」にはあれほど神経質に目を光らせながら、神典の故を以て、「古事記」には一指も触れることができず、神々の放恣に委ねていたのは皮肉である。ともすると、さらに高い目があって、教育勅語のスタティックな徳目を補うような、それとあらわに言うことのできない神々のデモーニッシュな力を、国家は望み、要請していたのかもしれない」
ユングも第二次世界大戦におけるドイツの責任について、これはヒトラーやナチスの責任というより、古代ゲルマンの荒ぶる神が動き出した結果だと言っていたと記憶します。三島はこのあと倭建命を取り上げて、さらに印象的な文章を残しています。
「命は神的天皇であり、純粋天皇であった。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であった。詩と暴力はつねに前者に源し、前者に属していた。従って当然、貶黜の憂目を負い、戦野に死し、その魂は白鳥となって昇天するのだった」
三島が自分を倭建命に、景行帝を昭和天皇に重ねていたことは間違いないでしょう。皇子でもない三島がなぜ、とも思いますが、三島は倭建は多くの詩作と放逐の運命によって「文化意志」の最初の代表者になったとしており、自分にもその資格はあると考えたように思われます。
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「古代ギリシアのスパルタでは、少年たちに泥棒行為が奨励されていました。御承知のとおりスパルタは尚武の国ですから、これは兵士としての敏捷さをみがく訓練だと考えられたわけです。実際、戦争という国家的泥棒が肯定されるなら、個人生活の泥棒も肯定されなければならぬわけで、ギリシア人の考え方は、とにかく筋がとおっている」
これがこの章の冒頭ですが、ローマ神話のメルクリウス(マーキュリー)も商人と盗人の神であり、惑星の水星に当てられていました。水星は太陽に最も近い惑星で、ケプラーの法則によって動きが速く、逃げ足の速い盗人のようだということです。大昔から商人と盗人は紙一重だったという見方もできます。
「私はスパルタの少年の如き訓練を、もっと復活すべきだと思う。国立ドロボー学校、国立殺人学校、国立ヤクザ学校などを政府が設立して、悪のルールをよく仕込み、頭のわるいやつはどんどん落第させるのである。そうすればこのごろのドロボーなど、百人のうち九十九人まで落第組であって、落第すればだんだんグレて来て善良なる市民になる他はない」
こうして「善良なる市民」の数が今の数倍にふえるというのですが、これを文字通りに受け取る必要はないでしょう。三島の戦後の日本への反発や怒りがよく表れていて、後の「楯の会」にもつながるのでしょう。
三島は最後に、ある有名女優がサインをするためにファンから渡された万年筆を返しそびれてしまったのを見て「じゃ、俺がもらっとくよ」とポケットに入れてしまったエピソードを明かし、「これを読んで、「返してくれ」と言って来る人があっても、返してやらないよ」と結びます。こんなところが三島が現代まで愛される理由かもしれません。
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「私は猫が大好きです。理由は猫というヤツが、実に淡々たるエゴイストで、忘恩の徒であるからで、しかも猫は概して忘恩の徒であるにとどまり、悪質な人間のように、恩を仇で返すことなどはありません」
後年の三島からは想像しにくいですが、三島は猫が好きでした。この章では祖母についても、恩を気にしすぎる人だったと書いています。
「うちの亡くなった祖母はいい人物でしたが、困った欠点があって、「あの人はまったく恩知らずだ。これだけのことをしてあげたのに、知らん顔をしている」とか、誰それがお礼を言うのを忘れた、とか、しじゅう言い暮している人でした。こういう人の人生は灰色で、人の裏切りや恩を数え立てて一生を送らなければなりません」
三島はまた恩と情事を比較して、「情事には「お返し」というものはないが、恩には「恩返し」というものがあるべきだとされている」ために、「恩というものは借金に似てきて、恩返しの美談を卑しく見せてしまう」とも述べています。即ち「恩返しは人生を貸借関係の小さな枠の中に引き戻し、押しこめて局限してしまう」のに対して「猫的忘恩は、人生の夢と可能性の幻影を与えてくれる」というわけです。
この章に関する限り、今の日本は三島が望んだ状況に近いようです。誰かに世話になったとか、そんなことをいつも忘れるのもどうかと思いますが、しじゅう気にする必要はないのではないでしょうか。私も猫のように淡々と生きられたら、と憧れる思いはあります。(なかなか出来ませんが・・)
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1980年発行の講談社ブルーバックス『五次元の世界 現代科学とUFOをつなぐもの』(カール・ブランスタイン著、宮崎忠訳)は若い頃から残している本の一冊です。怪しげなタイトルに見えますが・・
著者はカリフォルニア大学の物理学者ですが、人類の歴史を考察し、その祖先の猿人が残忍な動物であったことを示して「人類の誕生は、汚れなき心で行われたのではありません」と強調します。「殺戮 この人間的なるもの」という節ではオーストラリアの詩人ケイス・ウォーカーの詩を引用します。
「深い椅子 電気暖房装置
これは 昨日からのもの。
しかし 森の 幾千万もの野営の火
これは わたしの血の中のもの。
過去は 過ぎ去ったとは だれもいえない。
現在は 時間のごく一部にすぎない。ごく一部に・・
わたしを造った人類の 長い年々にあっては。」
これを読むと、三島由紀夫の『暁の寺』二の一節が思い出されます。
「思えば民族のもっとも純粋な要素には必ず血の匂いがし、野蛮の影が射している筈だった。(中略)民族のもっとも生々しい純粋な魂は地下に隠れ、折々の噴火にその兇暴な力を揮って、ますます人の忌み怖れるところとなった」
人間の性(さが)は悲しいものですが、宇宙の進化に目的があるならば、ブランスタインが最終章で言うように「地球上における進化の過程が、有害物質や放射能であふれ命も絶えた惑星となって終結する」ようなことはあり得ないでしょう。ただ、この仮定が正しいかどうかは不明という他はありません。
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「そもそも男の人生にとって大きな悲劇は、女性というものを誤解することである。童貞を早く捨てれば捨てるほど、女性というものに関する誤解から、それだけ早く目ざめることができる。男にとってはこれが人生観の確立の第一歩であって、これをなおざりにして作られた人生観は、後年まで大きなユガミを残すのであります」
これが三島の提言の根拠です。そして三島は「処女だけは断じて避けたがよい」「世の中はよくしたもので・・「童貞喰い」という種類の女族がいる」「世間には、ニセモノ「童貞喰い」も沢山いることを警戒せねばならん」など、「童貞諸兄」に多くの助言をします。
一方、稲垣足穂は「江美留」を主人公とする自伝的小説『弥勒』で放浪画家T(津田季穂)との会話を記しています。
「彼女に子供を生んで貰わねばならぬと希わない以上、女性に交渉を持つ必要はないと彼は考えていた。この次第を打ち開けた時に、Tは、「それを立派だと云わなくて何であろう」と答えた。「快楽主義が時間意識の強調であるに反して、童貞は真実の徳への第一歩である。我々は誰にあっても、覚めてはまた覚め、しばしば魘(うな)されともなるこの時間の夢が絶やされて、いまだ朧げなる、名状すべからざる或る者が自己主張を始めるのを待っているのだ」」
ちなみに私はこの年に至るまで童貞ですが、特に優越感も劣等感もありません。
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