三島由紀夫は自決の前年、雑誌『群像』に『日本文学小史』を発表しましたが、第二章「古事記」に次のように書いています。
「今もなお、私は「古事記」を、晴朗な無邪気な神話として読むことはできない。(中略)戦時中の教育を以てしても、儒教道徳を背景にした教育勅語の精神と、古事記の精神とのあいだには、のりこえがたい亀裂が露呈されていた」
「戦時中の検閲が、「源氏物語」にはあれほど神経質に目を光らせながら、神典の故を以て、「古事記」には一指も触れることができず、神々の放恣に委ねていたのは皮肉である。ともすると、さらに高い目があって、教育勅語のスタティックな徳目を補うような、それとあらわに言うことのできない神々のデモーニッシュな力を、国家は望み、要請していたのかもしれない」
ユングも第二次世界大戦におけるドイツの責任について、これはヒトラーやナチスの責任というより、古代ゲルマンの荒ぶる神が動き出した結果だと言っていたと記憶します。三島はこのあと倭建命を取り上げて、さらに印象的な文章を残しています。
「命は神的天皇であり、純粋天皇であった。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であった。詩と暴力はつねに前者に源し、前者に属していた。従って当然、貶黜の憂目を負い、戦野に死し、その魂は白鳥となって昇天するのだった」
三島が自分を倭建命に、景行帝を昭和天皇に重ねていたことは間違いないでしょう。皇子でもない三島がなぜ、とも思いますが、三島は倭建は多くの詩作と放逐の運命によって「文化意志」の最初の代表者になったとしており、自分にもその資格はあると考えたように思われます。
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